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	<title>映画 | KENブログ 風のように、しなやかに</title>
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	<description>気づいたこと思ったことなどを、気ままに書き連ねています。</description>
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		<title>映画『0.5ミリ』の余韻(よいん）人はどこまで共感しあえるのか？(ネタバレ注意)</title>
		<link>https://kenyu.red/archives/6669.html</link>
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		<dc:creator><![CDATA[kenken]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 09 Nov 2024 09:35:33 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[映画考察]]></category>
		<category><![CDATA[車]]></category>
		<category><![CDATA[0.5ミリ]]></category>
		<category><![CDATA[映画]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>この記事は映画を鑑賞した方を対象としています。未鑑賞の方にとってはネタバレとなる内容もありますので、ご注意ください。 本編において、映画のあらすじ紹介や、登場人物の俳優の写真等の掲載はしていませんので、そういったものをお [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>
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<p><span class="bold-blue">この記事は映画を鑑賞した方を対象としています。未鑑賞の方にとってはネタバレとなる内容もありますので、ご注意ください。</span></p>
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<p class="is-style-clip-box has-box-style">本編において、映画のあらすじ紹介や、登場人物の俳優の写真等の掲載はしていませんので、そういったものをお知りになりたい場合には、下記、公式ホームページを、ご参照ください。<br><span class="fz-12px"><a rel="noopener" target="_blank" href="https://www.05mm.ayapro.ne.jp/" title=""><strong>映画『0.5ミリ』公式サイト</strong><span class="fa fa-link external-icon anchor-icon"></span></a></span></p>
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  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-2" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-2">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">昭和の、あの名作…</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">映画に漂う、あの名画との共通点</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">見知らぬ人との距離感</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">痴ほう・そして戦争</a></li></ol></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">サワの涙に見る『物心両面の幸福』</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">生きることは、自分の穢けがれを認めていくこと</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">マイノリティとマイノリティ</a></li></ol></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">人生はダンス(円舞)の様に</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc1">昭和の、あの名作…</span></h2>
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<figure class="wp-block-image aligncenter size-full is-resized"><img fetchpriority="high" decoding="async" width="780" height="506" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/camera-4616573_1280.jpg" alt="" class="wp-image-6680" style="width:660px;height:auto" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/camera-4616573_1280.jpg 780w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/camera-4616573_1280-300x195.jpg 300w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/camera-4616573_1280-768x498.jpg 768w" sizes="(max-width: 780px) 100vw, 780px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません。</figcaption></figure><br />
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<h3 class="wp-block-heading"><span id="toc2">映画に漂う、あの名画との共通点</span></h3>
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<br />
<br />
<p>この映画が、どの様な物語なのかと言えば、安藤サクラが演じる介護士(ヘルパー)のサワが、街中で孤独を抱える”おじいさん”を見つけては、その能力と魅力でとりこして、たくましく生きていく話である。しかし登場人物は老人ばかりではない、引きこもりの若者マコトとの交流も描きこまれた不思議な世界観が描かれている話である。<br>しかし、この映画を鑑賞していくうちに、この映画に漂う雰囲気にある一つの映画が頭に浮かんできた。それが昭和の名画「男はつらいよ」である。一見、まるで共通点の無い映画にも思えるが、確かに似た匂いを筆者は感じたのである。<br><br>さて、では「男はつらいよ」と「0.5ミリ」になぜ同じ匂いを感じるのか、その共通点を洗いだしてみたい。<br>共通点として、まず最初に挙げられるのは「所在のなさ」である。寅さんは、基本的に旅ガラスであり自分の持ち家はない。日本中を旅して生活をしており、時には宿ではなく駅に泊まることもある。また親切な人と出会い、そこでお世話になるということが定番だ。サワも、帰る家が無く、街で出会ったおじいさんの家で世話になるか、そうでなければ車の中で夜を明かすこともある。<br><br>そして、この映画0.5ミリには「すたれゆく昭和の匂い」を色濃く描いている。<br>「男はつらいよ」はもちろん昭和がメインの映画なのだから、昭和の匂いがするのは当然なのだが、よくよく見ると、すでに昭和時代において無くなりかけていたもの、ひなびた温泉宿、廃線になりそうな路線そして古い駅舎といったものが、これでもかと登場する。そして、寅さんがスーパーマーケットで買い物をすることはない、必ず人との会話が楽しめる昔ながらの商店である。「0.5ミリ」でも古いものが多く登場する、サワがシゲル(坂田利夫）との夕食の買い物をするのも昔ながらの商店、そして、シゲルのトタン波板を外壁にしている家、高度経済成長期に多く建てられたもので現在では無くなりつつある。先生の(津川雅彦）の家も旧家でレンガ塀に瓦という大正か昭和初期に作られたと思われる趣のある建物だ。また、シネコン(シネマコンプレックス)に押されて消え去りつつある街の昔からの映画館、ノスタルジックがこれでもかと満載である。<br><br>登場人物たちも、昭和を象徴するような人達である。老人役の俳優はもちろん昭和を代表する名優といっていい人達ばかり、また、安藤サクラという主演女優も、どこか昭和の匂いを漂わせることのできる女優ではないかという気がする。ノスタルジックな街並みに安藤サクラという構図が、実は抜群の安定感として効いている映画となっているのだ。いすゞクーペ117という、ちょっと男くさい昭和の名車を運転していて違和感を抱かない女優も、実はそうはいない気がするが、そんなことも鑑賞者に気にさせない雰囲気を、彼女は当然のごとく漂わせることができるのである。台所に立つ安藤サクラの姿に、昭和時代の母親像を思い浮かべた年配の方は少なくないのではないだろうか。</p>
<br />
<br />
<br />
<h3 class="wp-block-heading"><span id="toc3">見知らぬ人との距離感</span></h3>
<br />
<br />
<br />
<p>所在がない昭和の雰囲気、それだけでイコール「男はつらいよ」とは、流石に筆者も思わない。<br>次の共通点があればこそ、この二つの映画に似た匂いを感じたのである。<br>その最後の共通点、それは「知らない人との距離感」である。<br><br>寅さんもサワも、ここぞという時には、初見の人であっても驚くほど<ruby>躊躇<rt>ちゅうちょ</rt></ruby>なく踏み込んでいく。寅さんは、あの屈託のない人たらしの笑顔と口上で、サワは、老人の弱点を<ruby>衝<rt>つ</rt></ruby>くずる賢さも使ってである。寅さんに踏み込まれたマドンナ達は、寅さんを知れば知るほどそのウソのない人柄に魅了されていくのであり(恋人としてではないのだが…）、サワに取り込まれた老人は、共に生活をすればするほど、その生活力、思いやりに魅了されていく。<br>そして、距離感は入り込む時だけではない、離れていく際も、寅さんとサワには似た空気を感じさせる。二人とも、人の心に溶け込むようにしてスッと入り込むが、別れ際も実に<ruby>潔<rt>いさぎよ</rt></ruby>くスッと去っていくのだ。その潔さは、自分が携われる範囲では全力を尽くすが、その人の幸せが自分の手の届かない場所・人達によって成されるのであることを悟ると、自分はスッとその場を立ち去るのである、その人の幸せを願いながら…。</p>
<br />
<br />
<br />
<p>寅さんもサワも老人には受けがよい。その心内にスッと入り込み旧知の知り合いの様に打ち解けることができる。しかし、一方、若者との交流はどうであろうか？ 寅さんには<ruby>満男<rt>みつお</rt></ruby>(演：吉岡秀隆)という甥が登場し、シリーズ後半では満男がメインで描かれていくストーリーが増える、「0.5ミリ」でも映画の後半になって、片岡家にいたマコトが再登場しサワとの交流が描かれていく。<br>そして、満男にとって寅さんは、心の支えになっているのである。一方、「0.5ミリ」では、マコトはサワに髪を切ることを委ね、そしてサワの運転する車で安心しきったかの様に寝ているシーンがラストに映し出され映画は終幕を迎える。寅さんに対する満男と、サワに対するマコトは、やはり重なる部分があるのだ。<br><br>だが、ここが重要なのだが、寅さんもサワも、実は若者に対して特別何かしたわけではない、ただ、寄り添っていただけなのだ。つまり、マコトが自分自身に向き合って現状から脱し一歩踏み出したのは、サワがきっかけではあるものの、サワのおかげとまでは言えないのではないだろうか。実は、そのきっかけを作ったのは、ほぼほぼ父(柄本明）である。酔っぱらっていつもの様にマコトに絡んでいたが、今回はなぜか本に執着して、それを捨て去る行為に出るのである。マコトが現実逃避の<ruby>鎧<rt>よろい</rt></ruby>として本の世界に逃げ込んでいたのは疑いようの余地がない。そういう意味で、その鎧を<ruby>剝<rt>は</rt></ruby>がし、自分自身に向き合うようなきっかけを作ったのは、やはり父なのだ。サワはそんな鎧を剥がされたマコトに寄り添う役を引き継ぎ、結果としてマコトが新たな道を進む一歩を見届けたに過ぎない。<br><br>さて、ここまではサワと寅さんというキャラクターの共通性をメインに取り上げてきたが、もちろん、この「0.5ミリ」は「男はつらいよ」と似た映画という一言で終わらせることができるような単純な映画ではない。そのあたりについて、もう少し掘り下げて見ていきたい。<br><br>この映画では、多くの老人が登場する。そのどれもが孤独を抱えているという点では一致しているが、老人ならではの問題も多く描かれている。介護の問題、老人を狙った詐欺の問題、老後資金の問題 等… 孤独な老人という視点で描かれた、こちらも名作映画「東京物語」にも共通する話題であるが、ここでは、あえて「痴ほう」という点にフォーカスしたい。というのも、「0.5ミリ」という映画の中での痴ほうは少し独特なメッセージ性を帯びている気がするからである。</p>
<br />
<br />
<br />
<h3 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc4">痴ほう・そして戦争</span></h3>
<br />
<br />
<br />
<p>痴ほうの話は、映画の中盤から後半にかけて、先生(津川雅彦）が登場するパートで描かれている。先生は痴ほうの妻(草笛光子)を持つが、自身も痴ほうになっていく結末を迎えるという展回をしていく。<br>この映画では、痴ほう介護の大変さや困難さを、ことさらに<ruby>煽<rt>あお</rt></ruby>るようなことはせず、逆に痴ほうによって、その人が持つペルソナ(仮面)が剥がされ、真に自分が持つ思想や視点に行き着いて行く姿が描かれている。<br>では、先生や、その妻が、その一生をかけて行き着いたものが何だったのか？<br>それは「戦争」なのだ、この世代にとっては良くも悪くも戦争を忘却することはできず、痴ほうになって残るのは、そこになってしまうという哀しさを帯びている。元海軍の先生にとって「戦争」とは一体何であったのか？　妻にとって「歌」とは一体何であったのか？画面越しにこちらに向けられる姿を通して、否が応でも、その意味を考えざるを得ない。<br><br>私たちは、戦争の悲惨さ愚かさを伝える存在として、きちんと先人の貴重な体験・メッセージを受け止めたのであろうか？ 次の世代に、それを伝える事の出来る存在になれているのであろうか？<br>「サワさんへ」と書かれたテープ、痴ほうによって出版社の編集者と間違われているとはいえ、彼女宛に残されたメッセージ。単に介護士・ヘルパーではなく、人間サワとして対峙しなければならなかったように、我々も、このメッセージに対しては同じように対峙をしなければならないのであろう。それが、本来、戦後世代を生きる者の使命なのであり、戦後という時代を続けていける唯一の方法なのだ。</p>
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<br />
<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc5">サワの涙に見る『物心両面の幸福』</span></h2>
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<figure class="wp-block-image aligncenter size-full is-resized"><img decoding="async" width="780" height="520" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/time-1558037_1280.jpg" alt="" class="wp-image-6681" style="width:714px;height:auto" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/time-1558037_1280.jpg 780w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/time-1558037_1280-300x200.jpg 300w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/time-1558037_1280-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 780px) 100vw, 780px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません。</figcaption></figure><br />
<br />
<br />
<br />
<p>劇中、サワが大泣きするシーンが二度ある、一度目は先生(津川雅彦)から渡されたテープを聞いた後であり（さめざめと泣く）、二度目はシゲルから遺産の100万円を車のトランクで見つけた時である(号泣)。<br><br>サワの、この二度の涙の意味を考えた時、それはすでに哲学的な意味を帯びることになる。人間にとって幸福とは何なのか？そんな哲学的な問いに踏み込んでいくからである。<br>サワは、一体何に幸福を感じたのか 一つには、お金という「物」(大号泣)、そして、もう一方は先生の思い「心」である（さめざめと泣く)。<br><br>人間の幸福は複雑である、いくら物、お金があっても、それがイコール幸せになるかと言えば、そうはならない。また、いくら心が豊かでも、それだけでは生きることはできない。量や質の程度はあるにせよ、それなりの『物心両面の幸福』無くしては、人間は幸せを感じて生きることのできない存在なのだ。そんなことが、この映画からキレイごとではなく感じとれるのだ。<br><br>二度目の涙(シゲルからの遺産）では、その時に赤く染められたワンピースを母の形見として、娘のマコトに与えていて、サワとマコト二人して号泣しているシーンでもある。この二人の涙の対比(マコト＝心、サワ＝物）、やはり物心両面の幸福を描いているのである。</p>
<br />
<br />
<br />
<p><br>一度目の涙(先生からのカセットテープ）<br><br>先生が語るメッセージを以下に書き起こしてみた。<br></p>
<br />
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<br />
</p>
<blockquote class="wp-block-quote is-style-default has-light-grey-background-color has-background is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>
<p>国と国の戦争とは一人対一人 掛ける何万もの<ruby>凝縮<rt>ぎょうしゅく</rt></ruby>したものに他ならない。<br>それを<ruby>皇国臣民<rt>こうこくしんみん</rt></ruby>の上に立つ権力者らによって決せられたことこそが悪であり罪である。<br>その中の人間一人一人にも<ruby>清濁<rt>せいだく</rt></ruby>備わり、すなわち愛憎が混然としているのである。<br>極限に追い込まれた人の輝きは、極限状態を<ruby>凌駕<rt>りょうが</rt></ruby>し自己の実存として<ruby>覚醒<rt>かくせい</rt></ruby>され、それは山をも動かすこととなる。<br>その山とは一人一人の心、0.5ミリ程度のことかもしれないが、その数ミリが集結し同じ方角に動いた時こそが革命の始まりである。<br>今日的日本人、その魂は残されているだろうか？ 人は生と死をかけて疾走し、一矢の目覚め<ruby>刹那<rt>せつな</rt></ruby>の開放によって究極の光明を見出すのかもしれない。 そして、守るべき愛を見出すのである。現代の日本人は愛されず、その対象も見つけられず偶力によって捻じ曲がり方角を見失い行き止まりの自分しか見えなくなるのである。よって人のために走るのではなく、人の命を断ち切るのである。<br><br><strong>映画：0.5ミリ本編 ～先生からのカセットテープの内容</strong></p>
</p></blockquote>
<p>
<br />
<br />
<br />
<p><br>サワは、戦争について語るこのカセットの前半の段落を聞いて泣くのだが、はたして、この内容を理解して泣いたのだろうか？ 内容もそれなりには理解出来ていたのかもしれないが、恐らく、彼女は先生の純粋な想いに、ただただ涙をしていたのではないのかと思う。そこには唐突な別れ(痴ほうと姪の存在)、自分が面倒をみてあげたかったという想い、更には、この先生の想いを汲んであげる人がいないのではないのかという虚無感、そんな様々な気持ちが凝縮された涙でもあろう。</p>
<br />
<br />
<br />
<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc6">生きることは、自分の穢けがれを認めていくこと</span></h2>
<br />
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<figure class="wp-block-image aligncenter size-full is-resized"><img decoding="async" width="780" height="520" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/ice-flowers-1985097_1280.jpg" alt="" class="wp-image-6682" style="width:631px;height:auto" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/ice-flowers-1985097_1280.jpg 780w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/ice-flowers-1985097_1280-300x200.jpg 300w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/ice-flowers-1985097_1280-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 780px) 100vw, 780px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません。</figcaption></figure><br />
<br />
<br />
<br />
<p>この映画は、サワとマコトの交流で映画が締めくられることとなる。最初の火事から始まる事件が伏線となり、それが最後に結びつく展回だ。ここでは、セリフは極限までそぎ落とされ、ただただ映像を元に鑑賞者は考え、そして感じる作りになっている。セリフやナレーションなど、不用意に説明が多い最近の映画とは違って、とても心地が良い雰囲気のエンディングとなっている。<br>その少ないセリフや映像の中で、マコトが実は女性であったこと、そして、サワには子宮が無い(だから彼女は女ではないと自認している)ことが語られていく。お金や泊まる場所にさえ困ったサワが、なぜ若い男性ではなく、老人であったのか、そういったことも静かに納得させられていくのだ。</p>
<br />
<br />
<br />
<h3 class="wp-block-heading"><span id="toc7">マイノリティとマイノリティ</span></h3>
<br />
<br />
<br />
<p>マイノリティーは、マイノリティーを放っておけない、これが現実かどうかはともかく、映画や小説の中では、よく語られることだ。マコトが母の<ruby>穢<rt>けが</rt></ruby>れの象徴とも言える赤い服を着ることは、もう一度その原点に立ち返る意味での<ruby>胎内回帰<rt>たいないかいき</rt></ruby>ともとれるであろう。そして、サワの車に乗り父の元を去るということの意味は、「自立」なのであろう。<br>サワは語る「知らなくていい真実ってあると思う…」、人間は生きていくうえで綺麗なままではいられない、時に傷つき、時に穢れていくのだ、そういったものをただの汚れと捉えてはいけない、<ruby>蓋<rt>ふた</rt></ruby>をして生きていてもそれらを隠し通すことはできない。そういったものを自分でしっかりと受け入れ、受け止め、それを踏まえた上で、自分の道を進めていく、そんなことがエンディングのシーンでは語られているのではないだろうか。</p>
<br />
<br />
<br />
<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc8">人生はダンス(円舞)の様に</span></h2>
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<br />
<br />
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full is-resized"><img loading="lazy" decoding="async" width="780" height="520" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/beautiful-2941820_1280.jpg" alt="" class="wp-image-6683" style="width:624px;height:auto" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/beautiful-2941820_1280.jpg 780w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/beautiful-2941820_1280-300x200.jpg 300w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/11/beautiful-2941820_1280-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 780px) 100vw, 780px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません。</figcaption></figure><br />
<br />
<br />
<br />
<p>映画の冒頭、ウィンナワルツの名曲(スケーターズワルツ）がかかる、サワと情事に及ぶ老人との関係をコミカルに描くBGMとしての効果なのかと思えば、映画の最後のエンディングロールでかかる曲も同じワルツだ。<br>ダンスは男性と女性が一定の距離感を保って踊るもの、男性が引っ張りまわしても、女性がもたれかかっても上手く踊れない、そう、まさに0.5ミリという距離感はダンスを踊る上でちょうどよい距離感なのだ。互いに自立することで、ダンスは踊る者だけでなく観る者をも幸せにできるのだ、そしてワルツは円を中心とした踊りで、一定のリズムに右回りと左回りを繰り返す。<br>そして、見ず知らずの人に声をかけ、一時のダンスを共に楽しむ、互いのことなど知らなくても、多少身体的や精神的に問題を抱えていたとしても何の障壁もない、まして、身分や地位などは踊る上では何の関係もない。ただただ、フラットに相手の踊ろうという意志を尊重し、リードとフォローで一つの踊りを際限なく繰り返すのだ。自分に正直に向き合い、そして、物心両面の幸福も得ていく。依存するのではなく自立した関係、そして相手をおもいやる、そんな距離が0.5ミリなのであろう。<br>筆者が、この映画から受け取ったものは、そういうものであった。</p>
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	</item>
		<item>
		<title>映画『イニシェリン島の精霊』の余韻(よいん) この奇妙な映画を考察(ネタバレあり)</title>
		<link>https://kenyu.red/archives/6604.html</link>
					<comments>https://kenyu.red/archives/6604.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[kenken]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 13 Oct 2024 08:37:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ギリシャ神話･哲学]]></category>
		<category><![CDATA[教養・趣味・娯楽]]></category>
		<category><![CDATA[映画]]></category>
		<category><![CDATA[映画考察]]></category>
		<category><![CDATA[イニシェリン島の精霊]]></category>
		<category><![CDATA[友情]]></category>
		<category><![CDATA[戦争]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>この記事は映画を鑑賞した方を対象としています。未鑑賞の方にとってはネタバレとなる内容もありますので、ご注意ください。 本編において、映画のあらすじ紹介や、登場人物の俳優の写真等の掲載はしていませんので、そういったものをお [&#8230;]</p>
The post <a href="https://kenyu.red/archives/6604.html">映画『イニシェリン島の精霊』の余韻(よいん) この奇妙な映画を考察(ネタバレあり)</a> first appeared on <a href="https://kenyu.red">KENブログ　風のように、しなやかに</a>.]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>
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<p class="is-style-memo-box has-box-style"><span class="bold-blue">この記事は映画を鑑賞した方を対象としています。未鑑賞の方にとってはネタバレとなる内容もありますので、ご注意ください。</span></p>
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<br />
<br />
<p class="is-style-clip-box has-box-style">本編において、映画のあらすじ紹介や、登場人物の俳優の写真等の掲載はしていませんので、そういったものをお知りになりたい場合には、下記、公式ホームページを、ご参照ください。<br><span class="fz-12px"><a rel="noopener" target="_blank" href="https://www.20thcenturystudios.jp/movies/banshees-of-inisherin" title=""><strong>映画『イニシェリン島の精霊』公式サイト</strong><span class="fa fa-link external-icon anchor-icon"></span></a></span></p>
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  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-4" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-4">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">寄る辺ない感情</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">安易にラベリングさせない映画</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">寄る辺なさを生み出す効果</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">哲学的な問いに溢あふれた映画</a><ol><li><a href="#toc5" tabindex="0">優しさとは？</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">映画は何も答えない</a></li></ol></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">能楽</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">反戦映画としてのイニシェリン島の精霊</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc1">寄る辺ない感情</span></h2>
<br />
<br />
<br />
<p>この映画は、見終わった後、何とも言えない「モヤモヤ」が<ruby>余韻<rt>よいん</rt></ruby>となって残る。<br>一体全体何が言いたいのか？監督が伝えたいメッセージは何なのか？そんな寄る辺なさを抱いたままの状態で放り出される感覚である。その寄る辺なさは「この映画は、こういう映画」というレッテルを貼る行為(ラベリング)が出来ないことへの不安と言っても差し支えないように思う。そう「未分類」や「未確認」といった存在は極端に人を不安に陥れるのだ。既知のどのカテゴリーにも収まらない様な映画は、それ自体が不安な存在であり、その映画が人の不安を<ruby>煽<rt>あお</rt></ruby>るような内容であればあるほど、寄る辺ない感情が<ruby>沸<rt>わ</rt></ruby>きだすことは、ごく自然な事なのだと思う。</p>
<br />
<br />
<br />
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="780" height="520" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/osman-rana-Oi1fJwi35oI-unsplash.jpg" alt="" class="wp-image-6636" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/osman-rana-Oi1fJwi35oI-unsplash.jpg 780w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/osman-rana-Oi1fJwi35oI-unsplash-300x200.jpg 300w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/osman-rana-Oi1fJwi35oI-unsplash-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 780px) 100vw, 780px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません</figcaption></figure><br />
<br />
<br />
<br />
<h3 class="wp-block-heading"><span id="toc2">安易にラベリングさせない映画</span></h3>
<br />
<br />
<br />
<p>さて、「イニシェリン島の精霊」を鑑賞中、私はこれをどのようにラベリングしていたかと思い返せば、これは、人間の狂気を描いた「サスペンス」だと受け止めていた。だが、見終わる頃には、そのレッテルはあっけなく<ruby>剥<rt>は</rt></ruby>がれ落ちていた。心の中に残る「モヤモヤ」、そして何とも言えない「寄る辺なさ」が、そのラベリングでは<ruby>払拭<rt>ふっしょく</rt></ruby>できなかったからである。<br>なぜなのか？ 答えは簡単である、登場人物があまりにも<ruby>愚<rt>おろ</rt></ruby>かで<ruby>滑稽<rt>こっけい</rt></ruby>だったのだ。<ruby>滑稽<rt>こっけい</rt></ruby>というと「男はつらいよ」の寅さんや、チャップリンが頭に浮かぶが、これらのキャラクターが登場する映画といえば「喜劇」である。<ruby>滑稽<rt>こっけい</rt></ruby>さというのは喜劇の要素を強く帯びることになる。つまり、この映画は不安感・<ruby>陰鬱<rt>いんうつ</rt></ruby>な気分と同時に、喜劇の様な<ruby>滑稽<rt>こっけい</rt></ruby>さも感じさせる映画であり、そのことが、私に安易なラベリングを許さず、モヤモヤとした寄る辺ない感情を抱かせ続けることになったのだ。それでも、あえてジャンルを特定するとなれば「ブラックコメディ」ということになるのかもしれない、しかしながら、一般的なブラックコメディは、もっと風刺が効いていて、何かを痛烈に批判するなどメッセージ性が高いものが多い。それに対し、この映画は風刺として受け止めた箇所はあるものの、それを伝えるためだけの映画とは、とても思えない。</p>
<br />
<br />
<br />
<h3 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc3">寄る辺なさを生み出す効果</span></h3>
<br />
<br />
<br />
<p>少し具体例を挙げて、この映画の「寄る辺なさ」に迫ってみたい。<br>印象的なのは、まず、あのテーマソング的に流れるBGMである。耳に残る３拍子の曲で、使用楽器はハープ、鉄琴？マリンバ？といったもの。3拍子は哀愁やリラックス効果をもたらすと言われており、使用楽器もリラクゼーション曲に使われることが多いものである。それらが、本作では哀愁も漂わせずリラックスもさせることはない、逆に少し人を不安にさせる様な曲に使われている。そのためか落ち着くようで落ち着かない、なんとも<ruby>拠<rt>よ</rt></ruby>り所のない気持ちにさせられていく。<br>不安を作り出す要素は他にもある、日が差し虹が出ている美しい港町が映し出され、挨拶をしながら笑顔で揚々とその中を歩く主人公パードリックの描写から、この物語は始まる。音楽はやや悲し気ではあるが画面のトーンは明るい。それが、パードリックの心の中に暗雲が立ち込めるのと呼応するかの様に、夜や屋内のシーンが多くなり、昼間の屋外であっても常に<ruby>曇天<rt>どんてん</rt></ruby>であり全体的に暗いトーンの画面が増えていき、鑑賞者もだんだん<ruby>陰鬱<rt>いんうつ</rt></ruby>な気分に引き込まれてしまう。</p>
<br />
<br />
<br />
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="640" height="427" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/etretat-7391013_640.jpg" alt="" class="wp-image-6640" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/etretat-7391013_640.jpg 640w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/etretat-7391013_640-300x200.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません</figcaption></figure><br />
<br />
<br />
<br />
<p>しかし、これらは、あくまで映画的な効果の一部であり、本質的な部分で「寄る辺なさ」を作り出しているのは、やはり登場人物達であろう。この映画には、観客の心を<ruby>掴<rt>つか</rt></ruby>んで離さないようなヒーローやヒロイン、つまり人間的な情にあふれ、人格者で正しい方向に導く聖人の様な人物や、ビルドゥングスロマンに代表されるような成長する人物などは、一人も出てこない。つまり、映画のメッセージを伝える様な役割を担うキャラクターが皆無なのである。パードリックもコルムも、最終的にやることが<ruby>荒唐無稽<rt>こうとうむけい</rt></ruby>(指切り、放火)で鑑賞者はどちらにも感情移入が出来ず、どちらの味方にもなれない。かといって、それらを<ruby>傍観<rt>ぼうかん</rt></ruby>して楽しむこともできない。<br>一見、しっかり者で知識人の様に描かれているパードリックの妹シボーンも、理性よりも感情に振り回され、怒鳴ったりわめいたりしているシーンが多く賢人然とした態度には程遠い。ドミニク青年は愚か者の象徴の様なキャラクター、それ以外の登場人物も、事なかれ主義的なパブのマスター、ゴシップ好きの郵便局兼小売店のおばさんと、ろくなものではない。極めつけは『神父』と『警官』。本来であれば、島民の心の支え、<ruby>安寧<rt>あんねい</rt></ruby>をもらたすべき立場にあるにも関わらず、まるで愚の骨頂の様な描写のされかたである。</p>
<br />
<br />
<br />
<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc4">哲学的な問いに溢あふれた映画</span></h2>
<br />
<br />
<br />
<p>では、そんな寄る辺ない映画を２時間弱に渡って見続けさせられるのだから、さぞ退屈な映画かと言えば、そんなことはない。なぜならパードリックやコルムの価値観がはっきりしていて、その争点が話の筋となって展回していくからである。「人生にとって、人間にとって一番大切なことは何なのか？」「人と人が<ruby>繋<rt>つな</rt></ruby>がるということは、どういうことなのか？」といった普遍的かつ哲学的なテーマが核となっているので、誰しもが、それについてつい考えてしまうような親和性の高い物語でもあるのだ。</p>
<br />
<br />
<br />
<h3 class="wp-block-heading"><span id="toc5">優しさとは？</span></h3>
<br />
<br />
<br />
<p>「芸術家は何か後世に残すべき使命がある」という信念を持つコルムに、「人への優しさが最も大事」と主張するパードリック。互いに歩み寄りはないが、映画の鑑賞者は、はたと気づかされる、この映画で最も優しい人物として描かれているのは、実はコルムであることを… そして、そんなコルムも映画の最後では「愛犬」をかばってくれたパードリックの優しさに対して感謝している。だが、優しさなど50年後に残るものではないのだ…とその価値を否定したのもコルムだ。『優しさ』とは一体何なのか、ここでも、また新たな哲学的な問いが現れてくる。<br><br>この映画を後から、様々な視点で振り返ると、疑問や問いは、とめどもなく<ruby>溢<rt>あふ</rt></ruby>れ出てくる。<br>パードリックが言うようにシボーンは本当に優しい妹なのか？ 彼女は単なるブラザーコンプレックスで兄に依存しているだけなのではないのか…。<br>シボーンが言う通りパードリックは本当に「いい人」なのか？ ドミニクと付き合っているのは、自分が優位に立てる唯一の人物だからだけなのではないのか…。<br>ドミニクは本当にただの愚か者なのか？ フランス語を引用したりできる賢さも、ズルさを嫌う<ruby>無垢<rt>むく</rt></ruby>で純粋な部分も持ち合わせている。狭い島で人の顔ばかり<ruby>伺<rt>うかが</rt></ruby>って生きている他の人とは一線を画して自分の純粋な想いで行動しているのは、実はドミニクとコルムだけではないのか…。</p>
<br />
<br />
<br />
<h3 class="wp-block-heading"><span id="toc6">映画は何も答えない</span></h3>
<br />
<br />
<br />
<p>こういったことに、この映画は一切回答を示さない。<br>この映画はひたすら問いかけをしてくるだけの映画なのである。いや、映画が問いかけるのではなく実は自分が勝手に問いかけをしているのである。この映画は、観る人その人の経験や想いなどよって、その人自身の哲学的テーマが浮き彫りにされ、それについて<ruby>否<rt>いや</rt></ruby>が<ruby>応<rt>おう</rt></ruby>でも考えさせられるような仕掛けがされている、まるで鏡の様な映画なのであろう。答えがあるとすれば、それは鑑賞者自身の中にあるのである。</p>
<br />
<br />
<br />
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="640" height="427" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/light-4697979_640.jpg" alt="" class="wp-image-6641" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/light-4697979_640.jpg 640w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/light-4697979_640-300x200.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません</figcaption></figure><br />
<br />
<br />
<br />
<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc7">能楽</span></h2>
<br />
<br />
<br />
<p>この映画の様に明確な答えやメッセージを出さずに、全ては観る者次第という演劇が日本に存在する。それが600年以上の伝統芸能で世界無形文化遺産にも指定されている「能楽」である。<br>能楽では、シテと呼ばれる主役が能面をかけ、神や鬼、冥界の者などを演じる。見ている人はあの世のことなのか現実のことなのか曖昧な世界に引きずりこまれていく。そして、能楽が目指すものは決して観客が「意味を理解する」ということではなく「何かを感じる」ことなのである。<br>唐突に「能楽」の話をしたのには実は理由がある、この映画では、コルムの部屋にぶら下げられている能面をパードリックが顔に当てるというシーンがあり、そのシーンの後に二人の対立が描かれていく。また、火事のシーンでは、その能面が燃えていく様が印象的に映し出された後、二人の浜辺のラストシーンへと続いていく。<br>これは明らかに監督が意図してそうさせているのであって、恐らく映画というフィクションの世界と、現実世界の堺を曖昧にする意図として、能面を象徴的に描いているのではないかと勝手に想像している。我々はこの能楽的な映画に、困惑しながらも何かを感じとらされているはずなのだ。</p>
<br />
<br />
<br />
<h2 class="wp-block-heading"><span id="toc8">反戦映画としてのイニシェリン島の精霊</span></h2>
<br />
<br />
<br />
<p>この映画を見て唯一監督のメッセージ性を感じたのは「戦争に対して鈍感になるな」ということ。<br>「映画の主人公パードリックとコルムの<ruby>仲違<rt>なかたが</rt></ruby>い」と「アイルランドの内戦(IRAと自由主義国)」は明らかにリンクして語られている。従って、お互いの信条や生き方の違いが個人レベルでは喧嘩だが、集団の場合それが戦争になるということとして描かれている。だが、喧嘩(個人)＝戦争（集団)という単純な図式は成り立たないというメッセージが、この映画には含まれていて、それを象徴的に描いたのが「指切り」と「放火」という行為ではないかと考えられる。<br>つまり、集団で行われる戦争という行為を、個人レベルで当てはめた場合、ただの喧嘩レベルではなく、「指切り」や「放火」といった明らかに<ruby>常軌<rt>じょうき</rt></ruby>を<ruby>逸<rt>いっ</rt></ruby>した行為を伴う喧嘩とみなしているのではないかと思えるのだ。現実世界に目を向ければ、世界中のどこかで戦争が起きている、そうした問題もイニシェリン島と同じで対岸の火事であり、いつもの出来事になり下げてしまい、戦争に対して鈍感になってしまってはいないだろうか？<br>人間の思い通りには物事は進まない、それを戦争や争</p>
<br />
<br />
<br />
<p>いで解決することは非常に愚かなこと。そして戦争に巻き込まれ犠牲になるのは、いつも弱きものたち。この映画でも争いに直接関係のないロバのジェニーが巻き添えとなってしまっている。<br /><br />この映画は様々なとらえ方ができるが、反戦映画という一面も含め、『人間の愚かさ』を取り上げた映画で、それは鑑賞している自分に向かっても投げかけられているように感じてならない。そして次の言葉が頭に浮かんで離れません。</p>
<br />
<br />
<br />
</p>
<blockquote class="wp-block-quote is-style-default has-light-grey-background-color has-background is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>
<p><strong><span class="fz-12px"><span class="fz-16px"><span class="fz-20px"><span class="fz-18px">「人間の愚かさをけっして過小評価してはならない」<br></span></span></span></span></strong>ユヴァル・ノア・ハラリ<br><span class="fz-12px">引用元：著書 『21 Lessons』より</span></p>
</p></blockquote>
<p>
<br />
<br />
<br />
<p>『サピエンス全史』の著書で、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが、著書21 Lessonsの中で、こう語っている。まさに、この言葉と共に噛みしめたい、そんな映画である。</p>
</p>The post <a href="https://kenyu.red/archives/6604.html">映画『イニシェリン島の精霊』の余韻(よいん) この奇妙な映画を考察(ネタバレあり)</a> first appeared on <a href="https://kenyu.red">KENブログ　風のように、しなやかに</a>.]]></content:encoded>
					
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	</item>
		<item>
		<title>映画『ドライブ・マイ・カー』の余韻(よいん)　ラストの意味にこめられたものとは？(ネタバレ注意)</title>
		<link>https://kenyu.red/archives/6577.html</link>
					<comments>https://kenyu.red/archives/6577.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[kenken]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 08 Oct 2024 15:14:03 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[教養・趣味・娯楽]]></category>
		<category><![CDATA[映画]]></category>
		<category><![CDATA[映画考察]]></category>
		<category><![CDATA[ドライブ・マイ・カー]]></category>
		<category><![CDATA[ラストシーン]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>以下の内容は映画を鑑賞した方を対象としています。未鑑賞の方にとってはネタバレとなる内容もありますので、ご注意ください。 本編において、映画のあらすじ紹介や、登場人物の俳優の写真等の掲載はしていませんので、そういったものを [&#8230;]</p>
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										<content:encoded><![CDATA[<p>
<br />
<p class="is-style-memo-box has-box-style"><span class="bold-blue">以下の内容は映画を鑑賞した方を対象としています。未鑑賞の方にとってはネタバレとなる内容もありますので、ご注意ください。</span></p>
<br />
<br />
<br />
<p class="is-style-clip-box has-box-style">本編において、映画のあらすじ紹介や、登場人物の俳優の写真等の掲載はしていませんので、そういったものをお知りになりたい場合には、下記、公式ホームページを、ご参照ください。<br><span class="fz-12px"><a rel="noopener" target="_blank" href="https://dmc.bitters.co.jp/" title=""><strong>映画『ドライブ・マイ・カー』公式サイト</strong><span class="fa fa-link external-icon anchor-icon"></span></a></span></p>
<br />
<br />
<br />

  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-6" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-6">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">ドライブ・マイ・カーのラストシーンの解釈</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">なぜ、みさきは韓国にいるのか？</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">なぜ、家福かふくの車(SAAB900 Turbo)に乗っているのか？</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">みさきの左頬の傷はなぜ消えているのか？</a></li></ol></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">ドライブ・マイ・カーの登場人物たち</a><ol><li><a href="#toc6" tabindex="0">「音おと」と巫女(みこ）</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">音おとの夢遊話むゆうばなし</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">みさきの登場、そして、この映画のメッセージ</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">高槻、そしてワーニャ伯父さん</a></li></ol></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">チェーホフとこの映画のつながり</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">人と人の繋がりとは</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc1">ドライブ・マイ・カーのラストシーンの解釈</span></h2>
<br />
<br />
<br />
<p><span class="fz-18px">この映画は、いくつか衝撃的な展開を見せる箇所があるが、特にラストシーンについては謎展開となっている。観客は見終わった後、不思議な</span><ruby><span class="fz-18px">余韻</span><rt>よいん</rt></ruby><span class="fz-18px">にひたることになる。ここでは、その謎が残るラストシーンから進めていきたい。そこにこそ、この映画の核となる部分が描かれているようにも思えるからだ。<br></span><br>さて、ラストシーンの謎は以下の2点ではないだろうか？</p>
<br />
<br />
<br />
<ul class="wp-block-list has-watery-blue-background-color has-background is-style-blank-box-navy has-border is-style-icon-list-question has-list-style">
<li>みさきが、なぜ<strong><span class="bold"><span class="fz-20px"><span class="fz-22px">韓国</span></span></span></strong>にいるのか？</li>
<br />
<br />
<br />
<li>なぜ<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>の愛車(<span class="fz-22px"><strong>SAAB900 turbo)</strong></span>に乗っているのか？</li>
<br />
<br />
<br />
<li><span class="fz-22px"><strong>左頬の傷</strong></span>が、なぜ消えたのか？</li>
</ul>
<br />
<br />
<br />
<h3 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc2">なぜ、みさきは韓国にいるのか？</span></h3>
<br />
<br />
<br />
<p><span class="fz-18px">これらは映画の中で語られておらず、あくまで鑑賞者の想像に委ねられている。なぜ、こうなったのかは自由に想像して下さい、という作者の意図が見て取れるので、「こうだ」と決めつけるのは若干野暮ではあるが、個人的な想像を述べてみたい。</span></p>
<br />
<br />
<br />
<p><span class="fz-18px">おそらく、ユンスが韓国での仕事の世話をしてくれたのではないだろうか？<br>ユンスの妻のイ・ユナが、ダンサーとして再スタートを切り、韓国に夫婦で戻ったのに併せて、みさきも韓国に移住したと考えられる。みさきは、元々ユンスに演劇でのドライバーの仕事を</span><ruby><span class="fz-18px">斡旋</span><rt>あっせん</rt></ruby><span class="fz-18px">してもらっている。映画で、みさきが登場してから、ほぼ笑顔ゼロの彼女が、ユンス家での団らんのシーンでは、わずかだが微笑み、イ・ヨナに対してサムアップさえしている。<br></span><ruby><span class="fz-18px">家福</span><rt>かふく</rt></ruby><span class="fz-18px">に会う前から、かなりの信頼関係が築かれていたことがわかる。特に、ユンス家の犬が異常なほど彼女に懐いていて、みさきが帰る時など、鳴いて悲しむほどということからも、何度も家に来ているということが分かる。</span></p>
<br />
<br />
<br />
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="640" height="427" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/busan-5063639_640.jpg" alt="" class="wp-image-6586" style="object-fit:cover" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/busan-5063639_640.jpg 640w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/busan-5063639_640-300x200.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません</figcaption></figure><br />
<br />
<br />
<br />
<h3 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc3">なぜ、家福かふくの車(SAAB900 Turbo)に乗っているのか？</span></h3>
<br />
<br />
<br />
<p>それでは、<span class="fz-18px">なぜ韓国で、みさきは</span><ruby><span class="fz-18px">家福</span><rt>かふく</rt></ruby><span class="fz-18px">の車を運転しているのであろうか？<br>これは、</span><ruby><span class="fz-18px">家福</span><rt>かふく</rt></ruby><span class="fz-18px">から「譲られた」とみて、まず間違いないのではないだろう。</span><ruby><span class="fz-18px">家福</span><rt>かふく</rt></ruby><span class="fz-18px">が新しく何かを踏み出すために、あれだけこだわった愛車を手放したということは、「ワーニャ伯父さん」という演劇に本当の意味で向き合えた彼にとって、ある意味で必然ともいえる。妻が亡くなった後、SAAB900 Turboは単なる愛車ではなく、「</span><ruby><span class="fz-18px">音</span><rt>おと</rt></ruby><span class="fz-18px">」の存在を感じれる空間、もっといえば、その存在を母に見立てて、そこにこもる</span><ruby><span class="fz-18px">胎内回帰</span><rt>たいないかいき</rt></ruby><span class="fz-18px">もあったように思う。この依存状況を乗り越えた</span><ruby><span class="fz-18px">家福</span><rt>かふく</rt></ruby><span class="fz-18px">にとって、それは手放す必要性があったということだ。だが、愛車を譲る相手は誰でも良いわけではない、自分よりはるかに、この愛車を愛し労わることのできる、同志でもあり娘の様な存在の「みさき」に譲ることは最善の選択だったと思える。</span><br>ラストシーンに<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>の姿は全く登場しない、それでいながら、彼が新たな自分となって歩んでいる姿がいきいきと想像できる、そんな秀逸なラストシーンだと思う。</p>
<br />
<br />
<br />
<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="780" height="520" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/amber-kipp-Jq-pDDNpJeM-unsplash.jpg" alt="" class="wp-image-6587" style="object-fit:cover" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/amber-kipp-Jq-pDDNpJeM-unsplash.jpg 780w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/amber-kipp-Jq-pDDNpJeM-unsplash-300x200.jpg 300w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/amber-kipp-Jq-pDDNpJeM-unsplash-768x512.jpg 768w" sizes="(max-width: 780px) 100vw, 780px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません</figcaption></figure><br />
<br />
<br />
<br />
<h3 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc4">みさきの左頬の傷はなぜ消えているのか？</span></h3>
<br />
<br />
<br />
<p><span class="fz-18px">映画の中で「手術をすれば薄くできるけど、あえて残している」とみさきが語るシーンがある。それは間接的とはいえ母親の死の原因について自らの</span><ruby><span class="fz-18px">戒</span><rt>いまし</rt></ruby><span class="fz-18px">めとして残している傷ということを意味している。そして、それが目立たなくなっているということは、</span><ruby><span class="fz-18px">家福</span><rt>かふく</rt></ruby><span class="fz-18px">が車を手放したように、みさきも母親の死の呪縛から解き放たれ、手術を行って傷を薄くし、新たな道を歩み始めた、ということを意味している。</span><br><br>さて、いきなりラストシーンから入ったが、前半にしか登場しない、この映画の主人公「<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>」の妻である「<ruby>音<rt>おと</rt>」</ruby>について、改めて振り返っていきたい。</p>
<br />
<br />
<br />
<h2 class="wp-block-heading has-text-align-center"><span id="toc5">ドライブ・マイ・カーの登場人物たち</span></h2>
<br />
<br />
<br />
<h3 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc6">「音おと」と巫女(みこ）</span></h3>
<br />
<br />
<br />
<p><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">さて、この映画は主人公の妻が亡くなるまでの前半部分がプロローグで、その2年後、仕事のため車で広島に向かうシーンからが本編という構成になっている。この映画を理解する上で最も重要なのは、主人公「</span></span><ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">家福</span></span><rt>かふく</rt></ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">」の妻「</span></span><ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">音</span></span><rt>おと</rt></ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">」であることは言わずもがなであろう。「音（おと）」というその個性的な名前だけでなく、SEXの後に語ったことをまるで覚えていないという、巫女(シャーマン)体質が強烈な印象として鑑賞者の脳に刻み込まれる。<br>そして、この音(＝サウンド）と巫女(シャーマン)という言葉からは、何か人間の原始的(プリミティブ)な状態を想起させられる。古代人類において巫女は神の声を伝える特別な存在であり、また銅鐸(銅製の大きな鈴）など、それまでの自然界には存在しない音というのは、人々を統べる上での特別な物であった。現代では想像し難いが、神秘的な音を作り出すということが文明の原点ともいえるのだ。この</span></span><ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">家福</span></span><rt>かふく</rt></ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">の妻「</span></span><ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">音</span></span><rt>おと</rt></ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">」に、何か神秘性をまとわせていることが、とても印象深い。</span></span><br><br><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">もう少し、この「</span></span><ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">音</span></span><rt>おと</rt></ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">」に踏み込んでみたい。神秘的な存在で人を魅了する彼女を、この場合ミューズと言い換えるのは、やや度が過ぎるであろうか。しかし、ただの、とめどもなく不倫を繰り返す「とんでも女子」と捉えてしまっては、この物語の世界観には入ることはできない。</span></span><br><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">改めて原作者が村上春樹だということに立ち返り、1960年代を振り返ってみると、当時はヒッピー文化の全盛期、自由や愛を掲げ、米国の若者の間で広まり、ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョップリンといった当時の音楽シーンのアイコンとも言える存在を産んだ源泉でもある。</span></span><br><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">このヒッピー文化と「</span></span><ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">音</span></span><rt>おと</rt></ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">」は、何か同等のものとして描かれているのではないだろうか。もちろん、この映画は別にヒッピー文化を称賛している映画ではない、あくまで、ヒッピー的な要素を持つミューズによって産み出される不思議な話が、この映画の中心に据えられているということなのだ。そう、17歳の女子高生が同級生の山賀の家に空き巣に入るという、あの</span></span><ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">摩訶不思議</span></span><rt>まかふしぎ</rt></ruby><span class="fz-16px"><span class="fz-18px">な話だ。</span></span><br>そんな音が語る話について、次に詳しく見ていきたい。</p>
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<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="448" height="640" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/statue-1405539_640.jpg" alt="" class="wp-image-6591" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/statue-1405539_640.jpg 448w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/statue-1405539_640-210x300.jpg 210w" sizes="(max-width: 448px) 100vw, 448px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません</figcaption></figure><br />
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<h3 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc7">音おとの夢遊話むゆうばなし</span></h3>
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<p>「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」が語る話を便宜上、夢遊話(むゆうばなし）と名付けることにする。その夢遊話に登場する17歳の女子高生は「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」自身と考えて間違いないが、正確に言えば、娘を亡くしてからの「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」である。映画の冒頭でこの夢遊話が語られるのだが、それは娘を亡くしてから17年後のことであり「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」は娘を亡くした後の自分を、それまでの自分とは別人格として登場させたのだ。<br>ここで17歳というのは、非常に大きな意味を持つ。17歳は未成年最後の年齢である。(最近、日本でも成人年齢が18歳に引き下げられたが、アメリカなどはもともと17歳）つまり、娘を無くした未成年の私という別人格がそこに投影されているのだ。<br><br>また、同時に前世の「高貴なヤツメウナギ」は、娘を亡くす前の「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」自身だという事を意味していると思われる。そこで語られる高貴なヤツメウナギは、魚に寄生することをせず、ただ岩の上でユラユラと揺れているだけの存在、最後は餓死したのか魚に食べられたのかは分からないと語られる。解釈は映画を見た視聴者に委ねられているが、本来寄生しなければ生きていけないヤツメウナギが、寄生をしないという選択をするということは、生きることを放棄しているようなもの。それは、本来やるべきことをしなかったために娘を失うことになってしまったという自責の念の現れとも思える。<br><br>次に、夢遊話に登場する山賀という人物だが、これが<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>のことであることも疑いの余地はない。若干潔癖症気味な彼の特徴は、山賀の部屋のキレイさに現されているし、鍵に対する不用心さも描かれている（彼は、鍵をかける習慣が身に付いていない）。<br><br>さて、この山賀の話は一体どういう意味を持っているのだろうか？<br>山賀の知らないところで空き巣に入る行為は、不倫をする「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」の背徳行為の象徴だといえる。そして、山賀が気付くように、必ず「しるし」を置いて帰るというのは、実は、その背徳行為を、夫に気付いて欲しいという、彼女の心の叫びを意味しているのだ。また、別の空き巣の登場は、彼女が高槻と自分の不倫関係を<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>が知ってしまったことを示唆していると考えられる。つまり、この、もう一人の空き巣もまた<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>なのだ。不倫現場を目撃した後、気付かれないように家を出ると、そのまま空港に戻る、しかし鍵をかけずに出て行ってしまったことで彼女に気づかれてしまう。空き巣との遭遇は、互いの秘密を知ったことの比喩と思われる。そして、成田空港のホテルからSkype通話で、何事もなかったかの様に振る舞う<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>、モニター越しの「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」も当たり障りのない会話をして、おとぼけに合わせている。<br>しかしながら、彼女の心中は穏やかではなかったはずだ。強い背徳感に襲われていたはずである。そして、その気持ちが、そのまま空き巣に対する攻撃的な行為として表現されているとも考えられる。また、<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>の緑内障の左目と、女子高生が最初に突き刺す左目とが一致していることも、それと分かるような仕掛けなのではないかと感じられる。何度も何度も刺すというのは、何度も何度も裏切っているということへの比喩なのであろう。<br><br>「しるし」として残したにも関わらず、最後の最後まで何も気づかないフリをする山賀に対し、ついに女子高生がカメラ越しに音声が無くても分かるように、はっきりとした口調で「私が〇した」と連呼するのだが、それは「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」がそのことを<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>に伝える決心をしたことを意味している。<br><br><ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>は「僕は正しく傷つくべきだったんだ」と語るシーンがあるが、その怖さから妻のある部分に蓋をしてしまった行為もまた、岩にしがみついて栄養をとらない高貴なヤツメウナギと同じといえよう。妻は亡くした子供に対して何もしなかったという自責の念にかられ、夫は亡くした妻に対して同じく自責の念にかられたのだ。</p>
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<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="640" height="424" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/star-trails-8306233_640.jpg" alt="" class="wp-image-6592" style="object-fit:cover" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/star-trails-8306233_640.jpg 640w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/star-trails-8306233_640-300x199.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません</figcaption></figure><br />
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<h3 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc8">みさきの登場、そして、この映画のメッセージ</span></h3>
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<p>物語は、後半に向けて謎を秘めた運転手「みさき」がクローズアップされていく形で進行していく。最初は、その加速感や減速感を感じさせない運転技術と決して出しゃばらない空気の様な存在が、<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>にとって居心地の良さを作り出していた。しかしながら、徐々に二人の距離は縮んでいくのである。そのきっかけとなるのがカセットテープに録音された「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」の声だ。みさきは、<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>・<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>夫婦の亡くなった娘が生きていれば、自分と同じ23歳だということを知る。そして「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」と同じく二面性をもつ「みさきの母」の話が語られていき、「<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>の妻、<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」と「みさきの母」が妙な形でリンクしていく、つまりそれは心情的で疑似的ではあるが、<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>とみさきが、ある意味での父子の様な様相も帯びていくのである。そしてクライマックスとも言える<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>とみさきが抱き合うシーンで、この映画の強いメッセージが語られる。</p>
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<p>『どんな人にも多面性がある、その一つの面だけを見よう(見せよう)としていないか？<br>その全ての面を、あるがままとして受け入れることはできないのか？』</p>
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<p>人と人が本質的に繋がるということを、深く考えさせられる強いメッセージである。<br>さて、人と人との繋がりといえば、「<ruby>音<rt>おと</rt>」</ruby>をめぐって、そして役者として<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>と繋がっていく、高槻について語らないわけにはいかない。それを次に語っていきたい。</p>
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<h3 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc9">高槻、そしてワーニャ伯父さん</span></h3>
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<p>さて、ここで理解しがたい人物、高槻について語らずに終わるわけにはいかない。高槻は難しい役回りで、ある面では単なるご都合主義的なキャラクターともいえる。つまり、彼は「<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>」が妻である「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」の真実を知るきっかけを与えてくれる人物として描かれており、それ以外の部分の彼の行動、<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>との関係については分かりにくい人物として映るのだ。だが、高槻は<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>に夢遊話の続きを伝えるという役回りだけではない、この映画で別の重要なメッセージを持った登場人物として描かれている。</p>
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<p>高槻を掘り下げるには、劇中劇のチェーホフ「ワーニャ伯父さん」の物語の内容を把握する必要があるが、この劇中劇のワーニャを知ることによって、<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>が「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」の死後、どうしてワーニャが演じられなくなったのか、その意味を理解することができる。そして、そのことを通して高槻という存在が浮き上がってくるのだ。<br><br>ワーニャは人妻であるエレーナに恋をしてしまうという役どころ。高槻がエレーナ役の中国人女優と関係を持つというシーンが描かれているが、大事なのはそこではなく、高槻が不倫関係にあった、「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」をエレーナに見立てているというところがポイントとなるのではないだろうか。<br><ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>からワーニャという配役を言い渡された時に、高槻がたじろぐシーンが描かれているが、なぜ高槻に年齢の合わない役柄を配役したのか？ これには次の二つの意味があると考えることができる。一つは、高槻の役者としての才能を認め、自分が演じてきたワーニャを彼に任せることにした、ということである。もう一つは、不倫をしていたことを知っていた<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>が、それを暗にほのめかすためにわざとその配役をした。<br><br>人妻エレーナ＝「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」だと考えるのには、それなりの根拠がある。「ワーニャ伯父さん」の中でワーニャが初めてエレーナと出会ったのは、彼女がまだ未婚だった時で、「なぜあの時、求婚しなかったのか」とワーニャが後に後悔する場面があるのだが、その出会った時のエレーナの年齢が実は17歳なのである。あの「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」の17歳と完全に重ねられているのだ。これは、この映画が明らかに意図してそうしているのは間違いないであろう。</p>
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<p><ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>がなぜ「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」の死後、ワーニャを演じられなくなったのか、それはエレーナを言い寄るワーニャを拒絶するが、かといって夫を愛しているわけではないのである。映画の中の劇中劇でも描かれているが、そんなエレーナをワーニャが罵(ののし)るシーンがある。「あの女の<ruby>貞淑<rt>ていしゅく</rt></ruby>さは、<ruby>徹頭徹尾<rt>てっとうてつび</rt></ruby>まやかしなのさ」というセリフである。その内容は「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」を思い起こさせ、<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>がそれに耐えられなくなったシーンとして描かれている。<br>一方で、<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>は高槻を認めている。何故ワーニャ役をまかせたのかを高槻に語る「君は相手に自分をさらけ出すことができる」。「<ruby>音<rt>おと</rt></ruby>」に自分をさらけ出すことが出来なかった<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>、その足らない部分を高槻は持っている。ただ、高槻はその社会性の欠如により舞台を降りることになる。<br>そんなた、高槻の行動に、一見救い様のなさを感じてしまうが、それにこたえるものこそが「ワーニャ伯父さん」のエンディングシーンである。映画の劇中劇でも印象的に映し出されている。「<strong>重荷を背負った人生だとしても、一生懸命生きていれば、いつか死を迎えるその時こそ、本当の安楽が得られるのだ。</strong>」というソーニャ(手話のイ・ヨナが演じている役)のシーンで幕引きとなる。このソーニャの言葉は、イ・ヨナ自身の言葉としても強いメッセージ性があるが、これは<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>、みさきにも重なる、高槻のこれからの人生に対しても語られたものでもある。そして、それは誰しもが共感できる強いメッセージなのではないだろうか。</p>
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<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="640" height="438" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/character-430559_640.jpg" alt="" class="wp-image-6594" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/character-430559_640.jpg 640w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/character-430559_640-300x205.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません</figcaption></figure><br />
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<h2 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc10">チェーホフとこの映画のつながり</span></h2>
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<p>劇中劇として使われるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」。<br>もちろん、<ruby>家福<rt>かふく</rt></ruby>や高槻といった登場人物との相関関係は具体的に感じられる。しかしながら、この映画全体が<ruby>醸<rt>かも</rt></ruby>し出している空気感こそが、どこかチェーホフを感じさせるのではないだろうか。<br>これは、たまたまこの映画の公式サイトを見ていた時に、ミュージシャンの坂本美雨さんが寄せていた映画に対するコメントで気が付いた。</p>
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</p>
<blockquote class="wp-block-quote is-style-default has-light-grey-background-color has-background is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow"><p>
<p><strong>静けさの果てに、人の本当の心が溢れ出す瞬間は時が止まったように美しく、思わず、息を止めていた。</strong><br><br><span class="fz-12px">引用元：<a rel="noopener" target="_blank" href="https://dmc.bitters.co.jp/" title="">映画『ドライブ・マイ・カー』公式サイト<span class="fa fa-link external-icon anchor-icon"></span></a></span></p>
</p></blockquote>
<p>
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<p>チェーホフは、劇作家のマクシム・ゴーリキーに宛てた手紙で、次の様な言葉を残している<br>「<strong>人間がある明確な行動に対して、可能な限り少ない動作の数を費やすとき、それは優美である</strong>」<br>まさに、これがチェーホフと、この映画全体を通して流れる共通した優美性なのではないだろうか。</p>
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<h2 class="wp-block-heading has-text-align-left"><span id="toc11">人と人の繋がりとは</span></h2>
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<p>この映画では、様々なコミュニケーションについて描かれている。言語は日本語だけでなく英語、韓国語、中国語、タガログ語、ドイツ語、マレー語、さらには韓国手話まで登場する。印象的だったのはタバコなども人間同士の距離を縮めるコミュニケーションツールとして描かれており、また車という開放的でありながらも、閉鎖された独特なプライベート空間が自分の内面に向き合い、そして人と語り合うのによい場所なのだということを改めて認識させられた。<br>また、あえて感情表現をしない棒読みの読み合わせ。そしてユンスが日本に来た理由が「能楽」ということも意味深い。そこには、先のチェーホフの言葉にあるような優美に繋がる世界観があるが、同時に「能楽」の数少ない表現が伝える何かというものは人間の潜在意識や深層心理、そういったものへと繋がる何かがあるのかもしれないと考えさせられた。<br><strong>人が何かを伝え、そして共に認識するということを改めて深く見つめなおす</strong>、そんな作品だったのがとても印象深い。</p>
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<figure class="wp-block-image aligncenter size-full"><img loading="lazy" decoding="async" width="640" height="427" src="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/heart-700141_640.jpg" alt="" class="wp-image-6593" style="object-fit:cover" srcset="https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/heart-700141_640.jpg 640w, https://kenyu.red/wp-content/uploads/2024/10/heart-700141_640-300x200.jpg 300w" sizes="(max-width: 640px) 100vw, 640px" /><figcaption class="wp-element-caption">写真は映画本編とは関係がありません</figcaption></figure><br />
</p>The post <a href="https://kenyu.red/archives/6577.html">映画『ドライブ・マイ・カー』の余韻(よいん)　ラストの意味にこめられたものとは？(ネタバレ注意)</a> first appeared on <a href="https://kenyu.red">KENブログ　風のように、しなやかに</a>.]]></content:encoded>
					
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