映画『0.5ミリ』の余韻(よいん)人はどこまで共感しあえるのか?(ネタバレ注意)

映画考察


この記事は映画を鑑賞した方を対象としています。未鑑賞の方にとってはネタバレとなる内容もありますので、ご注意ください。




本編において、映画のあらすじ紹介や、登場人物の俳優の写真等の掲載はしていませんので、そういったものをお知りになりたい場合には、下記、公式ホームページを、ご参照ください。
映画『0.5ミリ』公式サイト




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昭和の、あの名作…




写真は映画本編とは関係がありません。




映画に漂う、あの名画との共通点




この映画が、どの様な物語なのかと言えば、安藤サクラが演じる介護士(ヘルパー)のサワが、街中で孤独を抱える”おじいさん”を見つけては、その能力と魅力でとりこして、たくましく生きていく話である。しかし登場人物は老人ばかりではない、引きこもりの若者マコトとの交流も描きこまれた不思議な世界観が描かれている話である。
しかし、この映画を鑑賞していくうちに、この映画に漂う雰囲気にある一つの映画が頭に浮かんできた。それが昭和の名画「男はつらいよ」である。一見、まるで共通点の無い映画にも思えるが、確かに似た匂いを筆者は感じたのである。

さて、では「男はつらいよ」と「0.5ミリ」になぜ同じ匂いを感じるのか、その共通点を洗いだしてみたい。
共通点として、まず最初に挙げられるのは「所在のなさ」である。寅さんは、基本的に旅ガラスであり自分の持ち家はない。日本中を旅して生活をしており、時には宿ではなく駅に泊まることもある。また親切な人と出会い、そこでお世話になるということが定番だ。サワも、帰る家が無く、街で出会ったおじいさんの家で世話になるか、そうでなければ車の中で夜を明かすこともある。

そして、この映画0.5ミリには「すたれゆく昭和の匂い」を色濃く描いている。
「男はつらいよ」はもちろん昭和がメインの映画なのだから、昭和の匂いがするのは当然なのだが、よくよく見ると、すでに昭和時代において無くなりかけていたもの、ひなびた温泉宿、廃線になりそうな路線そして古い駅舎といったものが、これでもかと登場する。そして、寅さんがスーパーマーケットで買い物をすることはない、必ず人との会話が楽しめる昔ながらの商店である。「0.5ミリ」でも古いものが多く登場する、サワがシゲル(坂田利夫)との夕食の買い物をするのも昔ながらの商店、そして、シゲルのトタン波板を外壁にしている家、高度経済成長期に多く建てられたもので現在では無くなりつつある。先生の(津川雅彦)の家も旧家でレンガ塀に瓦という大正か昭和初期に作られたと思われる趣のある建物だ。また、シネコン(シネマコンプレックス)に押されて消え去りつつある街の昔からの映画館、ノスタルジックがこれでもかと満載である。

登場人物たちも、昭和を象徴するような人達である。老人役の俳優はもちろん昭和を代表する名優といっていい人達ばかり、また、安藤サクラという主演女優も、どこか昭和の匂いを漂わせることのできる女優ではないかという気がする。ノスタルジックな街並みに安藤サクラという構図が、実は抜群の安定感として効いている映画となっているのだ。いすゞクーペ117という、ちょっと男くさい昭和の名車を運転していて違和感を抱かない女優も、実はそうはいない気がするが、そんなことも鑑賞者に気にさせない雰囲気を、彼女は当然のごとく漂わせることができるのである。台所に立つ安藤サクラの姿に、昭和時代の母親像を思い浮かべた年配の方は少なくないのではないだろうか。




見知らぬ人との距離感




所在がない昭和の雰囲気、それだけでイコール「男はつらいよ」とは、流石に筆者も思わない。
次の共通点があればこそ、この二つの映画に似た匂いを感じたのである。
その最後の共通点、それは「知らない人との距離感」である。

寅さんもサワも、ここぞという時には、初見の人であっても驚くほど躊躇ちゅうちょなく踏み込んでいく。寅さんは、あの屈託のない人たらしの笑顔と口上で、サワは、老人の弱点をくずる賢さも使ってである。寅さんに踏み込まれたマドンナ達は、寅さんを知れば知るほどそのウソのない人柄に魅了されていくのであり(恋人としてではないのだが…)、サワに取り込まれた老人は、共に生活をすればするほど、その生活力、思いやりに魅了されていく。
そして、距離感は入り込む時だけではない、離れていく際も、寅さんとサワには似た空気を感じさせる。二人とも、人の心に溶け込むようにしてスッと入り込むが、別れ際も実にいさぎよくスッと去っていくのだ。その潔さは、自分が携われる範囲では全力を尽くすが、その人の幸せが自分の手の届かない場所・人達によって成されるのであることを悟ると、自分はスッとその場を立ち去るのである、その人の幸せを願いながら…。




寅さんもサワも老人には受けがよい。その心内にスッと入り込み旧知の知り合いの様に打ち解けることができる。しかし、一方、若者との交流はどうであろうか? 寅さんには満男みつお(演:吉岡秀隆)という甥が登場し、シリーズ後半では満男がメインで描かれていくストーリーが増える、「0.5ミリ」でも映画の後半になって、片岡家にいたマコトが再登場しサワとの交流が描かれていく。
そして、満男にとって寅さんは、心の支えになっているのである。一方、「0.5ミリ」では、マコトはサワに髪を切ることを委ね、そしてサワの運転する車で安心しきったかの様に寝ているシーンがラストに映し出され映画は終幕を迎える。寅さんに対する満男と、サワに対するマコトは、やはり重なる部分があるのだ。

だが、ここが重要なのだが、寅さんもサワも、実は若者に対して特別何かしたわけではない、ただ、寄り添っていただけなのだ。つまり、マコトが自分自身に向き合って現状から脱し一歩踏み出したのは、サワがきっかけではあるものの、サワのおかげとまでは言えないのではないだろうか。実は、そのきっかけを作ったのは、ほぼほぼ父(柄本明)である。酔っぱらっていつもの様にマコトに絡んでいたが、今回はなぜか本に執着して、それを捨て去る行為に出るのである。マコトが現実逃避のよろいとして本の世界に逃げ込んでいたのは疑いようの余地がない。そういう意味で、その鎧をがし、自分自身に向き合うようなきっかけを作ったのは、やはり父なのだ。サワはそんな鎧を剥がされたマコトに寄り添う役を引き継ぎ、結果としてマコトが新たな道を進む一歩を見届けたに過ぎない。

さて、ここまではサワと寅さんというキャラクターの共通性をメインに取り上げてきたが、もちろん、この「0.5ミリ」は「男はつらいよ」と似た映画という一言で終わらせることができるような単純な映画ではない。そのあたりについて、もう少し掘り下げて見ていきたい。

この映画では、多くの老人が登場する。そのどれもが孤独を抱えているという点では一致しているが、老人ならではの問題も多く描かれている。介護の問題、老人を狙った詐欺の問題、老後資金の問題 等… 孤独な老人という視点で描かれた、こちらも名作映画「東京物語」にも共通する話題であるが、ここでは、あえて「痴ほう」という点にフォーカスしたい。というのも、「0.5ミリ」という映画の中での痴ほうは少し独特なメッセージ性を帯びている気がするからである。




痴ほう・そして戦争




痴ほうの話は、映画の中盤から後半にかけて、先生(津川雅彦)が登場するパートで描かれている。先生は痴ほうの妻(草笛光子)を持つが、自身も痴ほうになっていく結末を迎えるという展回をしていく。
この映画では、痴ほう介護の大変さや困難さを、ことさらにあおるようなことはせず、逆に痴ほうによって、その人が持つペルソナ(仮面)が剥がされ、真に自分が持つ思想や視点に行き着いて行く姿が描かれている。
では、先生や、その妻が、その一生をかけて行き着いたものが何だったのか?
それは「戦争」なのだ、この世代にとっては良くも悪くも戦争を忘却することはできず、痴ほうになって残るのは、そこになってしまうという哀しさを帯びている。元海軍の先生にとって「戦争」とは一体何であったのか? 妻にとって「歌」とは一体何であったのか?画面越しにこちらに向けられる姿を通して、否が応でも、その意味を考えざるを得ない。

私たちは、戦争の悲惨さ愚かさを伝える存在として、きちんと先人の貴重な体験・メッセージを受け止めたのであろうか? 次の世代に、それを伝える事の出来る存在になれているのであろうか?
「サワさんへ」と書かれたテープ、痴ほうによって出版社の編集者と間違われているとはいえ、彼女宛に残されたメッセージ。単に介護士・ヘルパーではなく、人間サワとして対峙しなければならなかったように、我々も、このメッセージに対しては同じように対峙をしなければならないのであろう。それが、本来、戦後世代を生きる者の使命なのであり、戦後という時代を続けていける唯一の方法なのだ。




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サワの涙に見る『物心両面の幸福』




写真は映画本編とは関係がありません。




劇中、サワが大泣きするシーンが二度ある、一度目は先生(津川雅彦)から渡されたテープを聞いた後であり(さめざめと泣く)、二度目はシゲルから遺産の100万円を車のトランクで見つけた時である(号泣)。

サワの、この二度の涙の意味を考えた時、それはすでに哲学的な意味を帯びることになる。人間にとって幸福とは何なのか?そんな哲学的な問いに踏み込んでいくからである。
サワは、一体何に幸福を感じたのか 一つには、お金という「物」(大号泣)、そして、もう一方は先生の思い「心」である(さめざめと泣く)。

人間の幸福は複雑である、いくら物、お金があっても、それがイコール幸せになるかと言えば、そうはならない。また、いくら心が豊かでも、それだけでは生きることはできない。量や質の程度はあるにせよ、それなりの『物心両面の幸福』無くしては、人間は幸せを感じて生きることのできない存在なのだ。そんなことが、この映画からキレイごとではなく感じとれるのだ。

二度目の涙(シゲルからの遺産)では、その時に赤く染められたワンピースを母の形見として、娘のマコトに与えていて、サワとマコト二人して号泣しているシーンでもある。この二人の涙の対比(マコト=心、サワ=物)、やはり物心両面の幸福を描いているのである。





一度目の涙(先生からのカセットテープ)

先生が語るメッセージを以下に書き起こしてみた。




国と国の戦争とは一人対一人 掛ける何万もの凝縮ぎょうしゅくしたものに他ならない。
それを皇国臣民こうこくしんみんの上に立つ権力者らによって決せられたことこそが悪であり罪である。
その中の人間一人一人にも清濁せいだく備わり、すなわち愛憎が混然としているのである。
極限に追い込まれた人の輝きは、極限状態を凌駕りょうがし自己の実存として覚醒かくせいされ、それは山をも動かすこととなる。
その山とは一人一人の心、0.5ミリ程度のことかもしれないが、その数ミリが集結し同じ方角に動いた時こそが革命の始まりである。
今日的日本人、その魂は残されているだろうか? 人は生と死をかけて疾走し、一矢の目覚め刹那せつなの開放によって究極の光明を見出すのかもしれない。 そして、守るべき愛を見出すのである。現代の日本人は愛されず、その対象も見つけられず偶力によって捻じ曲がり方角を見失い行き止まりの自分しか見えなくなるのである。よって人のために走るのではなく、人の命を断ち切るのである。

映画:0.5ミリ本編 ~先生からのカセットテープの内容





サワは、戦争について語るこのカセットの前半の段落を聞いて泣くのだが、はたして、この内容を理解して泣いたのだろうか? 内容もそれなりには理解出来ていたのかもしれないが、恐らく、彼女は先生の純粋な想いに、ただただ涙をしていたのではないのかと思う。そこには唐突な別れ(痴ほうと姪の存在)、自分が面倒をみてあげたかったという想い、更には、この先生の想いを汲んであげる人がいないのではないのかという虚無感、そんな様々な気持ちが凝縮された涙でもあろう。




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生きることは、自分の穢けがれを認めていくこと




写真は映画本編とは関係がありません。




この映画は、サワとマコトの交流で映画が締めくられることとなる。最初の火事から始まる事件が伏線となり、それが最後に結びつく展回だ。ここでは、セリフは極限までそぎ落とされ、ただただ映像を元に鑑賞者は考え、そして感じる作りになっている。セリフやナレーションなど、不用意に説明が多い最近の映画とは違って、とても心地が良い雰囲気のエンディングとなっている。
その少ないセリフや映像の中で、マコトが実は女性であったこと、そして、サワには子宮が無い(だから彼女は女ではないと自認している)ことが語られていく。お金や泊まる場所にさえ困ったサワが、なぜ若い男性ではなく、老人であったのか、そういったことも静かに納得させられていくのだ。




マイノリティとマイノリティ




マイノリティーは、マイノリティーを放っておけない、これが現実かどうかはともかく、映画や小説の中では、よく語られることだ。マコトが母のけがれの象徴とも言える赤い服を着ることは、もう一度その原点に立ち返る意味での胎内回帰たいないかいきともとれるであろう。そして、サワの車に乗り父の元を去るということの意味は、「自立」なのであろう。
サワは語る「知らなくていい真実ってあると思う…」、人間は生きていくうえで綺麗なままではいられない、時に傷つき、時に穢れていくのだ、そういったものをただの汚れと捉えてはいけない、ふたをして生きていてもそれらを隠し通すことはできない。そういったものを自分でしっかりと受け入れ、受け止め、それを踏まえた上で、自分の道を進めていく、そんなことがエンディングのシーンでは語られているのではないだろうか。




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人生はダンス(円舞)の様に




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映画の冒頭、ウィンナワルツの名曲(スケーターズワルツ)がかかる、サワと情事に及ぶ老人との関係をコミカルに描くBGMとしての効果なのかと思えば、映画の最後のエンディングロールでかかる曲も同じワルツだ。
ダンスは男性と女性が一定の距離感を保って踊るもの、男性が引っ張りまわしても、女性がもたれかかっても上手く踊れない、そう、まさに0.5ミリという距離感はダンスを踊る上でちょうどよい距離感なのだ。互いに自立することで、ダンスは踊る者だけでなく観る者をも幸せにできるのだ、そしてワルツは円を中心とした踊りで、一定のリズムに右回りと左回りを繰り返す。
そして、見ず知らずの人に声をかけ、一時のダンスを共に楽しむ、互いのことなど知らなくても、多少身体的や精神的に問題を抱えていたとしても何の障壁もない、まして、身分や地位などは踊る上では何の関係もない。ただただ、フラットに相手の踊ろうという意志を尊重し、リードとフォローで一つの踊りを際限なく繰り返すのだ。自分に正直に向き合い、そして、物心両面の幸福も得ていく。依存するのではなく自立した関係、そして相手をおもいやる、そんな距離が0.5ミリなのであろう。
筆者が、この映画から受け取ったものは、そういうものであった。

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