この記事は映画を鑑賞した方を対象としています。未鑑賞の方にとってはネタバレとなる内容もありますので、ご注意ください。
本編において、映画のあらすじ紹介や、登場人物の俳優の写真等の掲載はしていませんので、そういったものをお知りになりたい場合には、下記、公式ホームページを、ご参照ください。
映画『ベイビー・ブローカー』公式サイト
『疑似家族』
家族ではないものが問いかけてくる「家族」とは?
是枝監督がライフワークのように描き続けているテーマ「家族」。本作ベイビーブローカーでも、とりあげたテーマも、やはり家族である。その中でも血縁のない者が家族の様な関係となる『疑似家族』をモチーフとして選んでいる。このモチーフは「万引き家族」でも既に取り上げているが、過去作品の焼き直しという感じにはなっていない。同じテーマを韓国という舞台、オールキャスト韓国人俳優、完全に韓国社会の中で描いた点が非常に興味深かった。「家族とは一体何なのか」「人と人とのつながりとは」という哲学的な問いかけが、本作でもしっかりと語られ、そして、鑑賞者は、その問いに答えようと考えさせられる、そんな作品に仕上がっていたように感じた。
韓国の美しい景色 ~ロードムービー~
映画は、全編に渡って韓国の美しい景色が映し出され、ロードムービーの形式がとられている。街から街へ移る際に目に入る景色、海、山、そして都会も日常とはどこか違う景色として映る。天気も、雨の日、晴れの日、そして昼も夜もと、周囲の風景だけでも十分に楽しめるような、そんな作品に仕上がっている。また、そんな景色の中、老若男女の出演者達が様々な表情を見せ、そこにある種の美しさを感じさせる。感動シーンや、いかにもな場面も多く、ちょっとやりすぎ感もあるが、この辺りは韓国映画・ドラマではお馴染みといったところなのであろうか。
なぜ『疑似家族』なのか?
さて、この映画について語る上で、まず押さえておきたいことがある。
それは、「家族」について考えさせる映画でありながら、なぜ、本物の家族ではなく、わざわざ『疑似家族』を持ち出す必要があるのか、ということだ。家族映画といえば、山田洋次監督「男はつらいよ」シリーズや、小津安二郎監督「東京物語」といった代表作がある松竹があるが、それらの多くが家族そのものを直接取り上げて描いている。それに対して、このベイビーブローカーは、そういった家族映画の王道とは一線を画しているといえる。あえて「疑似家族」を登場させることで、どの様な効果が出ているのか、そこから順に見ていきたい。
違いが生み出す効果
あるテーマについて考えた時、そのテーマについてだけを考えていても全く考えが進まないということがある。学校で「このテーマで作文を書いてください」と言われても、なかなか書き出すことができない、あの状況だ。ああでもない、こうでもないとテーマを反芻するだけで、一行として書き進められない。
そんな状態の時、先生のちょっとしたアドバイスで、急に書き出すことが出来たという経験はないだろうか? 実は、先生が出すヒントやアドバイスは、実は大体決まっていて、そのテーマから、ちょっとだけズラした考え、あるいは正反対の考えを取り入れて考えてみるといったものだ。そんなちょっとしたことで、頭のもやもやが晴れ、自分でも驚くほど書きたいことがまとまり、すらすらと書き進めることができたりする。これは一体何なのだろうか?
それは、何か比較対象があると、その違いをきっかけに思考を進めることができるということなのではないだろうか。
少し、くどいかもしれないが、例を挙げてもう少し説明を加えたい。仮に「手話」というテーマで鑑賞者に何か考えさせるようなタイプの映画を撮ろうとした場合、「ろう者による手話」のシーンだけで映画を作ってしまうと、鑑賞者は恐らく最初は興味を持ってそれを見るが、やがて思考停止に陥るであろう。多くの場合、ただただ感心するばかりで感情が先立ち、それについて考えるという行為をやめてしまうのだ。作文と違って考え続けなくても、それが目に見えた形で自分にフィードバックされないので、ほとんどの場合、思考停止していることにも気が付かない。
ところが、この映画に「ろう者による手話」だけでなく「健聴者による手話」のシーンが入ったら、どうなるであろうか?同じ手話ではあるが、鑑賞者は手話を行う人間の立場の違いなどを比較するようになり、より「手話」というものの存在について自然と考えるようになるのだ。更に「中途聴覚障害者の手話」が登場すれば、より重層的に「手話」について捉えることができてくるであろう。
人間は、何か比較対象があると、その違いや性質について本能的に探る性質があるのではないだろうか。
さて、そろそろ話を「ベイビーブローカー」に戻そう。
この映画で、『家族』の比較対象として登場したのが疑似家族なのである。仮に「本物の家族」を映画で2時間見せられたとしても、鑑賞者は感傷的にはなっても、家族というものについて深く考えるという状況になるのは意外となりにくい。なぜならば、それは自分の家族も含め、ドラマや他の映画でもよく見るいつもの家族の光景として映ってしまうからだ。『疑似家族』という異質なものが登場することによって、鑑賞者はその違和感に揺さぶられ、家族というものについて改めて考えを巡らすようになるのではないだろうか、本当の「家族」とは一体何なのかと…。
考えさせられるタイプの映画
一方で、この映画が訴えているものは、何が正しくて何が間違っているのか、といった道徳教育的な話ではない。日本では幼少期からの道徳教育の影響か「良い」「悪い」でしか物事を見ないケースが多いように思う。そういった人の中には、この映画に拒絶反応を起こしてしまい、受け付けないという人も一定数いるのではないだろうか。しかし、この映画が提示するのは、社会的/世間的に正しいとか間違いとかではなく、そういった状況にあえて一歩踏み込んでみて、「あなたにとっての家族とは」と、ただただ考えさせようとしているように感じるのだ。日本では哲学というものは、大学に行かないと学べない。幼少期は道徳で全員が同じ方向を向くような教育を受け、そして、倫理の授業は哲学ではなく、哲学史でしかない。自分で何かに疑問を持ち、それについて考える、そういった大事な時間を日本では幼少期から味わえていない気がしてならない。
ベイビーブローカーが描く家族
この作品は本当に容赦がない、主役たちの疑似家族以外に、赤ちゃんポストのある教会、母さんと呼ばれている女性が仕切る売春組織、やくざ組織、そして孤児院、これら全て形態は異なるが疑似家族であろう。更には、血縁関係者(娘や甥っ子)も登場するし、警察側の家族(夫)関係までも描かれている。もうこれでもかというほど畳みかけてくるのだから、こちらも揺れ動かされるのは当然ともいえよう。
狭間はざまに立たされ、心が揺らぐ…
この映画のラストシーン、疑似家族であっても、それが生きる力になっていることを写真(プリクラ)で象徴的に映し出して終わっていく、あのシーンである。明るく前向きな、とても良いエンディングだと思う。そんな、ほっこりした気分で鑑賞を終わろうとした時、ふと考えさせられた。このようなエンディングにする必要があるほど、現実に血縁家族は崩壊しているのだろうか…と。そして、中央大学文学部教授で社会学者の山田昌弘先生の言葉を思い出した。
自分が必要で大切な存在であることを実感するためのものを自分で作らなくてはならなくなりました。そのひとつが家族で、もうひとつが職業です。自分は仕事をしているから、社会の中で必要とされているという感覚を得ることができますし、自分には家族がいて、家族から自分は必要とされ、自分を大切にしてくれる、という家族が重要な存在になってきたのです。
社会学者 山田昌弘
この映画の特色といって差し支えないと思うが、このエンディングの様に、映画の後半になって印象的なシーンが増えていき、思わず気をとられてしまう瞬間がある。考えろと言われているのに同時に思考停止も強いてくる。その狭間に立たされて、気持ちが揺らぎまくるのだ。
鑑賞後期(余談)
是枝これえだ監督作品は、なぜカンヌ映画祭で評価を受けるのか
ベイビーブローカーに限らず、是枝監督作品はフランスのカンヌ映画祭でなぜ高い評価を受けるのか、そのあたりも考察してみたい。しかし、これは何かの文献を調べたり過去のデータから検証したものではない、あくまで個人の勝手な妄想程度に思ってもらえるとありがたい。
さて、やはりここでも、比較対象を入れて考えてみたい、ここでは北野(たけし)監督作品との比較で説明してみたい。
北野作品の特色との比較
北野監督作品はヴェネチア映画祭では非常に評価が高いが、カンヌでは今一つである。
それは何故なのか? 北野作品は数本しか鑑賞したことがないので、筆者の勝手な思い込みで書いている部分もあると思うが、その点はご容赦いただきたい。
北野作品は何か問いかけがあって、それについて考えさせられる作品というよりは、感情が、良い意味でも悪い意味でも揺れ動かされる、それが特徴といえるのではないだろうか。北野監督作品を鑑賞した後には、どのタイプの映画を見ても程度の差はあれ、何かゾワゾワとした気持ちになるのだ。これは北野映画は、やや俯瞰した状態で鑑賞するということが出来ず、完全に没入させられ、北野映画ワールドというローラーコースターに乗せられている状態になるからであろう。それに対して是枝作品は、これまでも散々述べてきたように、鑑賞者に感じさせるだけではなく、考えさせようとするタイプの映画で、この「考えさせる」という特徴はカンヌ映画祭で、やはり人気のある河瀬監督(代表作:映画あん等)にも同じことが当てはまるのではないだろうか。
印象的か?それとも象徴的か?
絵画に例えるならば、北野作品はルノアールやモネといった「印象主義」の絵画。光が織り成す一瞬の輝きをキャンパスに描きとり、絵の題材とか、絵の中の建物の意味とか、そういったものは関係なく、美しいと思った瞬間の光の印象をただただ描きとるというものが印象主義。鑑賞者は、その美しさや、その光景に感傷的に浸るのだ。
それに対して是枝作品は、モローやクリムトの「象徴主義」の絵画ではないかと思う。
こちらは画題や登場人物が象徴的に描かれていて、鑑賞者の想像力を掻き立てる。このポーズの意味は?なぜあそこに時計が描かれているのか?この絵は一体何を言いたいのか?考えはとめどもなく続く。
カンヌの評価 フランス人の気質
結論として、何かを「考える」作品がカンヌでは評価される傾向にあるということ。もう少し具体的に言えば、現代社会を捉えた視点と、その国独自の文化、そういったものがしっかりと汲み取られ融合した作品、かつ、しっかりとしたテーマ性があり、それについて考えさせられるような作りになっている作品、そういった映画がカンヌでは高い評価を受けているのであろう。
ドライブマイカー」のカンヌ映画祭での評価を見ても、それはよくわかる。(ドライブマイカーは脚本賞ほか、国際映画批評家連盟賞、AFCAE賞、エキュメニカル審査員賞という3つの独立賞も受賞し、計4冠に輝いている)
カンヌ映画祭で受賞した作品を見るたびに、フランス人は考えながら映画を鑑賞することに長けた人種なのではなかろうかと思えてならない。これも、もちろん勝手な思い込みとも言えるが、一応、それなりの根拠もある。フランス人は幼少の頃から授業に哲学がある、それは日本の道徳の授業とはまるで違っていて、一方的に価値観を押し付けるものではない。
自分で考えて自分で答えを導き出すということを強く求められる授業だ。逆に言えば、考えることが出来ないということは、理性・知性を持たない人間であり、それは躾けられた犬よりも下等とされる(実際、犬は入店できても子供不可の店は多いと聞く)。
フランスの多くの人々が、幼少期から考えるクセのようなものが身についているので、自然とそういう作品が評価される土壌があるのではないだろうか。
先生が教え、生徒が教わるだけの一方向の教育で育ってしまった我々日本人には、カンヌ受賞の作品は、なかなか「理解しがたいもの」となってしまっているのかもしれない。
好き嫌いの先にあるもの
この映画は、シリアスな内容で、様々な感情や考えを浮かびあがらせる映画でありながら、個人的な印象としては、場面ごとの余韻が少なすぎるように思える。ロードムービーでありながらボーっとさせてもらえず、狭間に立たされて考え続けさせられるということは先にも述べたとおり。映画の内容にフック(引っ掛かり)が多くあり、いつまでもそれが頭に残り、映画が進むにつれ、メモリの容量を占めて動作が重くなっていくパソコンの様に疲弊していくのだ。129分間という、それほど長くないこの映画が、まるで3時間以上に感じたのは、そのあたりにあるのではないかと感じている。
このベイビーブローカーという映画を料理に例えると、ラーメン+トッピング全部乗せ、ニンニクマシマシで…という感じ、それが抜群に美味しければお腹いっぱいでも、何とかなるのだが、何か余計なスパイスが入った様な違和感があり、鑑賞後もそれがずっと残るため、やや食傷気味である。ただ、これは、その料理が好みか、そうでないかの問題であって、料理自体に問題があるとは言い難い。あるいは、この映画をたった一度見ただけで理解できている、と思っている事自体が間違っているのかもしれない。トッピング全部乗せのマシマシなのは、何度も鑑賞しても、味変できる要素をそれだけ持っている、とも言えなくはない。
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