無用の用 (むようのよう) この言葉知っていますか?
まず、普段の生活では、まず使わない言葉ですよね。
似た言葉に、「無知の知」というのがあります。
これは、ソクラテスの言葉で、「知らない事を知っている」という意味です。
(詳しくは、前回の投稿を参照して下さい)
同じ様に、言えば・・・
「用が無いことを、用(もち)いる」
う~ん・・・どうも、しっくりと行きませんね(笑)
この無用の用は、老荘の思想(老子・荘子)からきている言葉です。
今回は、そんな、無用の用(むようのよう)の意味を
次の2つのステップに分けて、お伝えしたいと思います。
- 意味が分かるレベル とりあえず意味さえ分かればいい!
- ウンチクレベル 老荘の知恵をしっかりと理解したい!
「てっとり早く、意味だけ知りたい」という方は
STEP-1 の 意味が分かるレベルだけでOKです。
「人にウンチクが語れるくらい知りたい」という方は
STEP-2 の ウンチクレベルまで、通して見て下さい。
STEP-1 意味が分かる レベル
それでは、まず、てっとり早く意味を知りたい というレベルです。
無用の用の意味
一見すると、全く役に立たない、または、用をなさないもののように見えるが、本当は重要な役割を果たしていること。
現代、使われるこの言葉が、実際には、どういうことを差しているのか?
次に、それを見ていきましょう。
無用の用の具体的な事例
一見、必要とは思わないようなものです。
これって、結構あります。
例えば、道路です。
これって、歩いている時に足を乗せる部分だけあれば、他はいらないですよね?
車だって、タイヤが乗る部分だけあればいいはず。
でも、その部分以外を切り取って、断崖にしたらどうですか?
恐ろしくて、一歩も歩けなくなりますよね!
自分が、足を置く以外の部分があるから、何の心配もなしに歩くことが出来るのです。
また、車のハンドルの「 遊び 」の部分、それ自体が直接タイヤの動きには影響しませんから、車の方向を変える役には立っていません。
しかし、もしも、この遊びが無かったら、ちょっと手が動いただけで、車にその動きが伝わってしまうので、コワくて運転できませんね?(笑)
無用の用
意味 : 一見役立っていない様で、実は役立っているもの
( 例 )
- 道路の実際には足を乗せていない部分
- 車のハンドルの遊び ・・・など
STEP-2 ウンチクレベル
さて、ウンチクレベルです。
老子・荘子の思想に、もっと深く入っていきます。
まずは、 荘子 内篇 第四人間世篇 に出てくる「無用の用」から見ていきましょう。といっても、全部だと長いので、ポイントだけをかいつまんでいきます。
荘子
生没年は不明(紀元前300年頃と言われている)
姓名は、荘周 ( 字 は子休と言われている)
中国戦国時代の蒙(現在の河南省)の思想家 老子と並ぶ道家思想の中心的な人物 個々の事物の価値や差異は見かけ上のものにすぎず根本的には全て平等であるとし、自然にまかせる行き方を説く
【出典:小学館 大辞泉】
荘子の説く無用の用
人は皆、有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり
人は、役立つものばかりを追い求め、役に立つか立たないかという狭いものの見方 しかできなくなっている。
一見役に立たないけれども、本当は有用だというものが、たくさんあるのに、そういったものへは、目がいかない。
直木 は先ず 伐 られ、 甘井 は 先 ず 竭 く
真っ直ぐな木は、木材として役に立つため直ぐに切られてしまう。
(曲がった木であれば、その寿命を全うすることが出来る)
美味しい水を出す井戸は、すぐに飲み尽くされかれてしまう。
(それほど美味しくない水を出す井戸なら長く水をたたえていられる)
続いて、老子です。
老子の第十一章に、有は無から生まれるという箇所があります。
それを、見ていきましょう。
老子
生没年は不明(架空の人物という説もある)
姓名は、李耳( 字 は伯陽)
道家思想の中心的な人物
儒教の人為的な道徳・学問を否定し、無為自然の道を説いた
道(TAO)を宇宙の本体とし、道に則った無為自然・謙遜柔弱の処世哲学を説く
【出典:小学館 大辞泉】
老子の説く無用の用
三十の輻 、一 轂 を共にす。 其の無に当たりて、車の用有り。埴 を 埏 めて以って器を 為 る。其の無に当たりて、器の用有り。 戸牖 を 穿 ちて以って室を 為 る。其の無に当たりて、室の用有り。故に有の以って利と 為 すは、無の以って用を為せばなり。
30本の幅(スポーク)が轂(車輪の中心)に集まっている。その無の空間があってはじめて車輪として役に立つ。
土をこねて器を造る、器の何も無い空間があるからこそ器として役に立つ。
扉や窓などの穴をあけて部屋を造る、その無の空間が部屋になる。
つまり、形有るものが利益をもたらすのは、何も無いことのおかげである。
老荘思想
荘子の最初の文は、孔子が楚(そ)という国に行った際、接輿(せつよ)という男が、家の前でつぶやいていた言葉の一説で、 孔子に聞かせているという形で、語られています。
つまり、孔子の教えに対する、批判が少し込められていると言われています。
孔子の教えに対抗?
孔子の教える儒教では、次の様な事が大事だとされています。
- 仁 : 人を思いやる
- 義 : 私欲におぼれず、なすべき事をする
- 礼 : 目上を敬うこと
- 智 : 学問に励むこと
- 信 : 正直・誠実であること
今でも、人を思いやる、正直でいなさい、目上の人を敬いなさい、こういったことは、今でも道徳などで習いますよね。
まさに、ものごとの道理を説く 王道 といっていいと思います。
高校野球で、強い四番バッターと勝負せずに、毎回敬遠すると問題になりますよね?
それから、プロで四番バッターにスクイズをさせると、プロらしくない!といって非難の対象になるかもしれません。
でも、老荘の思想では、全然OKなんです。
あるがままでいい (無為自然)
こうあらねばならない、という孔子の教えに対して、あるがままでいい、というのが老荘の思想です。
世間でいう有用なものという型に、当てはまらないからといって無用とは限らないし、そもそもそいう型に当てはめること自体が、窮屈でしょう?ということです。
荘子・老子
紀元前の中国の思想化で、道家思想の中心的人物
荘子の無用の用
- 人は役に立つものばかりを見て、役立たないものを見ない
- 有用が良いとは限らない、無用が良い場合もある
老子の無用の用
- 無用なものがあるから、有用がそこに生まれる
あとがき
無用の用って、奥が深いですよね。 禅にも影響を与えている思想なので、考えていくと禅問答の様になっていきます(笑)
一見すると、真っ直ぐな木は、使い道がないから切られずに済み、長く生きながらえたっというのも、思想として別に短命がダメで長生きが良いって言っているわけではありません。
古代中国の戦国時代、孔子の教えが国の基本的な考え方となり、自分よりも国家の為、人民の為といって、多くの若者の命が戦争で失われた事を、憂いていることが、その背景にあるようです。
荘子は、実は、熱心な儒家だったという説もあります。
決して、”アンチ孔子”というわけではないようなんですね。
ただ、上記の様な時代背景があって、あまりにも国家に傾倒する事への警鐘として老荘思想は生まれたものなのでしょう。
孔子の教えは、スッと納得できるのに対し、老荘は少し「え!?」ってなる事が多いですね(笑)
でも、自分が窮屈な考え方・生き方をしていると思う方には、是非、おススメです。
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