フランス革命(1789~1795)、フランスの絶対王政を終わらせ、ブルジョワジーと呼ばれている市民階級が権力を握った革命のことで、学校で習う西洋史の中でも、歴史の転換期として重要なポイントとしてとりあげられます。
更には、ディケンズの『二都物語』や、池田利代子の『ヴェルサイユのばら』などに見られるように、小説やマンガ、更には映画やテレビ等、様々なメディアで、フランス革命は、題材としてとりあげられています。
もちろん、絵画でもフランス革命を題材にしたものは多くあります。
さて、次の絵は…
これはドミニク・アングルを代表とする、フランス・アカデミーの主流派 『 新古典主義』とは描き方が違います。
筆後を残すタッチの少し粗い部分をあえて取り入れ、ドラマチックに情景を描く『ロマン主義』の、ある意味革命的な絵でした。
しかし、実はこの絵…
正しくは、フランス革命(1789-1795)を描いたものではなく、フランス7月革命(1830)を描いたものなんです。
フランスには、これ以外にフランス2月革命(1848)と呼ばれる革命も起きています。
(1968年5月起きた、当時のド・ゴール政府に対する学生・労働者の反対運動のことをフランス5月革命と呼ばれている)
今回は、まずフランス革命(1789~1795)に限定して、解説をしていきたいと思います。
さて、この時代はまだ「写真」がありません。
従って、史実を残すために絵画があり、現代ではニュース映像などの報道の様な役割がありました。
絵画は、その芸術性とは別に、当時の様子を見るのにとても有効なツールです。
ちょっと大作になりそうですが、絵画を中心にして、なるだけ分かりやすく説明できたらとと思っています。
フランス革命に関する登場人物
まず、最初にフランス革命に登場する、重要人物の肖像画を紹介します。
ここでは、6人に厳選していて、もちろん、これ以外の人物も登場します。
フランス国王 ルイ16世
フランス王妃 マリー・アントワネット
財務総監督官 ジャック・ネッケル
フランス革命の指導者 エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス
革命はテニスコートから始まった!?
それでは、最初の一枚です。
ダビッド作 球戯場(テニスコート)の誓い という絵画です。
これは、市民階級が集まって起こした議会なのですが、それに至る経緯をこれから説明します。
フランス革命が、なぜ起こったのかというと、その理由はフランス王政の財政危機です。
ルイ14世以降、対外戦争や王族の過度の支出に、凶作も重なり財政が破綻していました。これを打開するため、ルイ16世は全国三部会というものを開きます(1789年)
三部というのは、当時の身分制度(アンシャン・レジーム)で、3つに分けたものです。
右の風刺画の様に、平民の上に僧侶と貴族が完全に乗っかっている様な、一部と二部が特権身分で、税金も免税特権がありました。
三部に所属する平民は、基本的に政治に口を出す権利はなかったが、唯一、身分別の議会である、全国三部会に参加する権利を持っていた。
しかしながら、実質的に、三部会は、ほとんど開催されたことがありませんでした。
この時、全国三部会の開催が行われたいきさつは、あまりの財政難に、国王側が特権階級の人達にも課税を実施しようとしたため、特権階級の人々の反対にあったため、これを打開するために、広く国民の意見を拾うという名目で開催されたのでした。
第一部 | 僧侶代表 | 291名 |
第二部 | 貴族代表 | 285名 |
第三部 | 平民代表 | 578名 |
しかし、議決に際して全ての身分で同じ一票を主張する第三部(平民)と身分別評決を主張する、第一、二部との間で対立が起こり、結局、何も話し合いが進まなくなってしまいました。
三部会が完全に膠着(こうちゃく)状態となってしまったため、第三部の平民代表たちは、シェイエスやミラボーを中心に、我々こそ国民の代表だという事で、独自の「国民議会」というのを立ち上げます。
そして、憲法を制定するまで解散しないことを誓いました。
【球戯場(テニスコート)の誓い】
シェイエスは、実は聖職者です。
しかし、彼は第一部ではなく第三部代表でした。
聖職者や貴族でも、下位のものは、それぞれ第一部、二部で同等とはみなされずに、第三部に
所属させられていたのです。
この国王側は、当初、この国民議会を全く認めていませんでしたが、第一部、二部からも国民議会に参加するものが増えると、国王政府側も無視できず、名称を「憲法制定国民議会」に改めると、これを正式に承認しました。
市民の知のレベルが革命を起こした?
さて、とりあえず憲法制定国民議会が制定されたところまで来て、いよいよここから革命が本格的に…というところですが、ここで、なぜ、この市民革命が起きたかを、少し考えたいと思います。
まず、原因の一つは先にも挙げたとおり、国の財政破綻です。
そして、もう一つですが、ここが実は重要だと思います。
それは…
市民の知識レベルが向上していたことにあると考えられています。
当時、本や新聞もかなり流通し市民立が、様々な思想や情報を得ていたことが、政府に対する不満や、自分たちの権利といったものに、敏感に反応することに、つながったと考えられています。
特に、この時代フランスで発行されたものに、『百科全書(L’Encyclopédie)』があります。
初版の発行部数は、4000部以上という多さで、購入者の多くにブルジョワジー(市民階級)の人達がいた。
実は、この百科全書の執筆には、184人が関わっていて、その中にはモンテスキュー、ルソー、ヴォルテールという、当時の市民へ思想の影響を与えた、啓蒙思想家も加わっている。
さらに、カフェやレストランだけでなく、サロンと呼ばれる社交場があり、新聞や本などで得た知識や思想を、仲間たちと議論をする場が生まれたことが、爆発的に市民の知のレベルを向上させ、フランス革命という市民革命につながっていったものと思われます。
あとがき
フランス革命は長編になるので、ここでいったん区切ります。
今回は、革命前夜的な内容となりましたが、革命は国の財政困窮というのが、時代、国に関係なく、その理由の大きな点だと思います。
誤解を恐れずに言えば、思想がどうであれ、皆、納得できるような豊かさがあれば、それほど不満も抱えず、革命に至ることはないのだと思います。
そして、情報の共有、他の人々との議論ということが、いかに人の知識レベル、思想レベルを向上させていくのかが、本当によくわかります。
これは、現代でも全く同じなのだと思います。
次は、いよいよバスチーユ監獄の襲撃から、進めていきたいと思います。
コメント