映画『イニシェリン島の精霊』の余韻(よいん) この奇妙な映画を考察(ネタバレあり)

映画『イニシェリン島の精霊』その寄る辺なさとは ギリシャ神話・哲学


この記事は映画を鑑賞した方を対象としています。未鑑賞の方にとってはネタバレとなる内容もありますので、ご注意ください。




本編において、映画のあらすじ紹介や、登場人物の俳優の写真等の掲載はしていませんので、そういったものをお知りになりたい場合には、下記、公式ホームページを、ご参照ください。
映画『イニシェリン島の精霊』公式サイト




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寄る辺ない感情




この映画は、見終わった後、何とも言えない「モヤモヤ」が余韻よいんとなって残る。
一体全体何が言いたいのか?監督が伝えたいメッセージは何なのか?そんな寄る辺なさを抱いたままの状態で放り出される感覚である。その寄る辺なさは「この映画は、こういう映画」というレッテルを貼る行為(ラベリング)が出来ないことへの不安と言っても差し支えないように思う。そう「未分類」や「未確認」といった存在は極端に人を不安に陥れるのだ。既知のどのカテゴリーにも収まらない様な映画は、それ自体が不安な存在であり、その映画が人の不安をあおるような内容であればあるほど、寄る辺ない感情がきだすことは、ごく自然な事なのだと思う。




写真は映画本編とは関係がありません




安易にラベリングさせない映画




さて、「イニシェリン島の精霊」を鑑賞中、私はこれをどのようにラベリングしていたかと思い返せば、これは、人間の狂気を描いた「サスペンス」だと受け止めていた。だが、見終わる頃には、そのレッテルはあっけなくがれ落ちていた。心の中に残る「モヤモヤ」、そして何とも言えない「寄る辺なさ」が、そのラベリングでは払拭ふっしょくできなかったからである。
なぜなのか? 答えは簡単である、登場人物があまりにもおろかで滑稽こっけいだったのだ。滑稽こっけいというと「男はつらいよ」の寅さんや、チャップリンが頭に浮かぶが、これらのキャラクターが登場する映画といえば「喜劇」である。滑稽こっけいさというのは喜劇の要素を強く帯びることになる。つまり、この映画は不安感・陰鬱いんうつな気分と同時に、喜劇の様な滑稽こっけいさも感じさせる映画であり、そのことが、私に安易なラベリングを許さず、モヤモヤとした寄る辺ない感情を抱かせ続けることになったのだ。それでも、あえてジャンルを特定するとなれば「ブラックコメディ」ということになるのかもしれない、しかしながら、一般的なブラックコメディは、もっと風刺が効いていて、何かを痛烈に批判するなどメッセージ性が高いものが多い。それに対し、この映画は風刺として受け止めた箇所はあるものの、それを伝えるためだけの映画とは、とても思えない。




寄る辺なさを生み出す効果




少し具体例を挙げて、この映画の「寄る辺なさ」に迫ってみたい。
印象的なのは、まず、あのテーマソング的に流れるBGMである。耳に残る3拍子の曲で、使用楽器はハープ、鉄琴?マリンバ?といったもの。3拍子は哀愁やリラックス効果をもたらすと言われており、使用楽器もリラクゼーション曲に使われることが多いものである。それらが、本作では哀愁も漂わせずリラックスもさせることはない、逆に少し人を不安にさせる様な曲に使われている。そのためか落ち着くようで落ち着かない、なんともり所のない気持ちにさせられていく。
不安を作り出す要素は他にもある、日が差し虹が出ている美しい港町が映し出され、挨拶をしながら笑顔で揚々とその中を歩く主人公パードリックの描写から、この物語は始まる。音楽はやや悲し気ではあるが画面のトーンは明るい。それが、パードリックの心の中に暗雲が立ち込めるのと呼応するかの様に、夜や屋内のシーンが多くなり、昼間の屋外であっても常に曇天どんてんであり全体的に暗いトーンの画面が増えていき、鑑賞者もだんだん陰鬱いんうつな気分に引き込まれてしまう。




写真は映画本編とは関係がありません




しかし、これらは、あくまで映画的な効果の一部であり、本質的な部分で「寄る辺なさ」を作り出しているのは、やはり登場人物達であろう。この映画には、観客の心をつかんで離さないようなヒーローやヒロイン、つまり人間的な情にあふれ、人格者で正しい方向に導く聖人の様な人物や、ビルドゥングスロマンに代表されるような成長する人物などは、一人も出てこない。つまり、映画のメッセージを伝える様な役割を担うキャラクターが皆無なのである。パードリックもコルムも、最終的にやることが荒唐無稽こうとうむけい(指切り、放火)で鑑賞者はどちらにも感情移入が出来ず、どちらの味方にもなれない。かといって、それらを傍観ぼうかんして楽しむこともできない。
一見、しっかり者で知識人の様に描かれているパードリックの妹シボーンも、理性よりも感情に振り回され、怒鳴ったりわめいたりしているシーンが多く賢人然とした態度には程遠い。ドミニク青年は愚か者の象徴の様なキャラクター、それ以外の登場人物も、事なかれ主義的なパブのマスター、ゴシップ好きの郵便局兼小売店のおばさんと、ろくなものではない。極めつけは『神父』と『警官』。本来であれば、島民の心の支え、安寧あんねいをもらたすべき立場にあるにも関わらず、まるで愚の骨頂の様な描写のされかたである。




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哲学的な問いに溢あふれた映画




では、そんな寄る辺ない映画を2時間弱に渡って見続けさせられるのだから、さぞ退屈な映画かと言えば、そんなことはない。なぜならパードリックやコルムの価値観がはっきりしていて、その争点が話の筋となって展回していくからである。「人生にとって、人間にとって一番大切なことは何なのか?」「人と人がつながるということは、どういうことなのか?」といった普遍的かつ哲学的なテーマが核となっているので、誰しもが、それについてつい考えてしまうような親和性の高い物語でもあるのだ。




優しさとは?




「芸術家は何か後世に残すべき使命がある」という信念を持つコルムに、「人への優しさが最も大事」と主張するパードリック。互いに歩み寄りはないが、映画の鑑賞者は、はたと気づかされる、この映画で最も優しい人物として描かれているのは、実はコルムであることを… そして、そんなコルムも映画の最後では「愛犬」をかばってくれたパードリックの優しさに対して感謝している。だが、優しさなど50年後に残るものではないのだ…とその価値を否定したのもコルムだ。『優しさ』とは一体何なのか、ここでも、また新たな哲学的な問いが現れてくる。

この映画を後から、様々な視点で振り返ると、疑問や問いは、とめどもなくあふれ出てくる。
パードリックが言うようにシボーンは本当に優しい妹なのか? 彼女は単なるブラザーコンプレックスで兄に依存しているだけなのではないのか…。
シボーンが言う通りパードリックは本当に「いい人」なのか? ドミニクと付き合っているのは、自分が優位に立てる唯一の人物だからだけなのではないのか…。
ドミニクは本当にただの愚か者なのか? フランス語を引用したりできる賢さも、ズルさを嫌う無垢むくで純粋な部分も持ち合わせている。狭い島で人の顔ばかりうかがって生きている他の人とは一線を画して自分の純粋な想いで行動しているのは、実はドミニクとコルムだけではないのか…。




映画は何も答えない




こういったことに、この映画は一切回答を示さない。
この映画はひたすら問いかけをしてくるだけの映画なのである。いや、映画が問いかけるのではなく実は自分が勝手に問いかけをしているのである。この映画は、観る人その人の経験や想いなどよって、その人自身の哲学的テーマが浮き彫りにされ、それについていやおうでも考えさせられるような仕掛けがされている、まるで鏡の様な映画なのであろう。答えがあるとすれば、それは鑑賞者自身の中にあるのである。




写真は映画本編とは関係がありません




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能楽




この映画の様に明確な答えやメッセージを出さずに、全ては観る者次第という演劇が日本に存在する。それが600年以上の伝統芸能で世界無形文化遺産にも指定されている「能楽」である。
能楽では、シテと呼ばれる主役が能面をかけ、神や鬼、冥界の者などを演じる。見ている人はあの世のことなのか現実のことなのか曖昧な世界に引きずりこまれていく。そして、能楽が目指すものは決して観客が「意味を理解する」ということではなく「何かを感じる」ことなのである。
唐突に「能楽」の話をしたのには実は理由がある、この映画では、コルムの部屋にぶら下げられている能面をパードリックが顔に当てるというシーンがあり、そのシーンの後に二人の対立が描かれていく。また、火事のシーンでは、その能面が燃えていく様が印象的に映し出された後、二人の浜辺のラストシーンへと続いていく。
これは明らかに監督が意図してそうさせているのであって、恐らく映画というフィクションの世界と、現実世界の堺を曖昧にする意図として、能面を象徴的に描いているのではないかと勝手に想像している。我々はこの能楽的な映画に、困惑しながらも何かを感じとらされているはずなのだ。




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反戦映画としてのイニシェリン島の精霊




この映画を見て唯一監督のメッセージ性を感じたのは「戦争に対して鈍感になるな」ということ。
「映画の主人公パードリックとコルムの仲違なかたがい」と「アイルランドの内戦(IRAと自由主義国)」は明らかにリンクして語られている。従って、お互いの信条や生き方の違いが個人レベルでは喧嘩だが、集団の場合それが戦争になるということとして描かれている。だが、喧嘩(個人)=戦争(集団)という単純な図式は成り立たないというメッセージが、この映画には含まれていて、それを象徴的に描いたのが「指切り」と「放火」という行為ではないかと考えられる。
つまり、集団で行われる戦争という行為を、個人レベルで当てはめた場合、ただの喧嘩レベルではなく、「指切り」や「放火」といった明らかに常軌じょうきいっした行為を伴う喧嘩とみなしているのではないかと思えるのだ。現実世界に目を向ければ、世界中のどこかで戦争が起きている、そうした問題もイニシェリン島と同じで対岸の火事であり、いつもの出来事になり下げてしまい、戦争に対して鈍感になってしまってはいないだろうか?
人間の思い通りには物事は進まない、それを戦争や争




いで解決することは非常に愚かなこと。そして戦争に巻き込まれ犠牲になるのは、いつも弱きものたち。この映画でも争いに直接関係のないロバのジェニーが巻き添えとなってしまっている。

この映画は様々なとらえ方ができるが、反戦映画という一面も含め、『人間の愚かさ』を取り上げた映画で、それは鑑賞している自分に向かっても投げかけられているように感じてならない。そして次の言葉が頭に浮かんで離れません。




「人間の愚かさをけっして過小評価してはならない」
ユヴァル・ノア・ハラリ
引用元:著書 『21 Lessons』より




『サピエンス全史』の著書で、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが、著書21 Lessonsの中で、こう語っている。まさに、この言葉と共に噛みしめたい、そんな映画である。

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