「 万葉集 」 この日本最古の和歌集は、7世紀後半から8世紀に作られました。
飛鳥時代ですよね。
少ない文字の中に、思いや情景を入れ込む、独特の文化は、こんなにも古くからあったんですね。
しかも、上は天皇から、庶民まで4500首以上の歌が載っています。
天皇から、貴族、そして庶民まで、一緒にまとめた文献なんて、歴史上これしかないんじゃないでしょうか?
その大半が、詠み人知らず(誰が歌ったものか不明)なので、身分の低い層の人達の歌がかなり入っていたということですよね。
そんな中でも、やはり女性歌人といえば、この人!
「 額田王 」(ぬかたのおおきみ)です。
「あかねさす」は、宝塚歌劇団に舞台化されたりもしている、有名な歌です。
今回は、そんな額田王の歌、「あかねさす・・・」にせまりたいと思います。
あかねさす・・・
さっそく、額田王の、歌を見てみましょう。
あかねさす 紫野
行き 標野 行き 野守 は見ずや 君が 袖振 る
万葉仮名
茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
口語訳
あかね色を帯びている、あの紫の草の野の御料地を行きながら、野の番人は見ていないかしら、あなたが手を振るのを
この歌には、返歌といって、この歌に呼応して返されている歌があります。 それを、次に、紹介します。
むらさきの・・・
紫草
の にほへる 妹 を 憎 くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
万葉仮名
紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
口語訳
紫草のように美しいあなたを憎く思うのなら 人妻のあなたをどうして恋しくおもうでしょうか
歌の解説
これは、どこで 詠 われたのか?
旧暦五月五日、端午の節句に御料地で、薬猟(くすりがり) が行われた際の事を詠ったものです。
この薬猟というのは、標野 といって、皇族しか入る事が許されない御料地 で男たちは、鹿を追いかけ、女たちは、紫草(薬草)を採る、一大イベントです。
その宴席の場で、恐らく余興として、額田王によって詠われたというのが有力説となっています。
どんな歌なのか?
鹿狩りをしている、大海人皇子が向こうから、私(額田王)に手を振っている。
御料地の番をしている人に見られたらどうしょう。
と額田王が、言ってるんですが・・・何が見られたら困るの??
っていう感じですよね(笑)
袖を振る(手を振る)という行為は、当時は、恋しい人の魂を自分のほうへ引き寄せるという意味があったようです。
この時、額田王は、皇后ではありませんが天智天皇の妻でした(当時は一夫多妻制)
手を振っているのは、天智天皇じゃなくて、大海人皇子(天智天皇の弟・後の天武天皇)ですからね・・・
そりゃ~ちょっとまずいでしょ!?って感じですよね(笑)
しかも、額田王の歌に対して、大海人皇子が、あんな歌を返していますからね。
この歌、人目を忍ぶ恋の歌ですが、当の額田王と大海人皇子の関係が、本当にそうだったのか?というと、どうもそれは、違うようです。
まず、この3人の関係について整理しておきましょう。
額田王と天智天皇・大海人皇子の関係
さて、まず、この方達の関係を見てみましょう。
次の図をご覧下さい。
実は、額田王は、もともと大海人皇子の妻だったんです。
二人の間に、十市皇女という子供も生まれています。
しかし、後に、天智天皇の妻となります。
兄・天智天皇が、弟・大海人皇子から、無理やり額田王を略奪したという説もあります。
実は、ここには悲劇があります。
額田王と大海人皇子の娘、十市皇女は、天智天皇の息子 大友皇子と結婚するのですが、天智天皇が亡くなった後、大友皇子と大海人皇子が戦うことになります。
壬申の乱です。
破れた大友皇子は自害、そして、十市皇女も後に自害をしてしまいます。
ちょっと脱線しました、話を額田王と大海人皇子の話に戻しましょう。
人目を忍ぶ歌ではない?
この歌が、どういう場所で詠われたものかを、もう一度思い出して下さい。
薬猟の宴席の座興というのが有力な説でした。
つまり、天智天皇や、他の人達の前で詠われたということです。
それに、万葉集に載って現代にまで名歌として伝わるぐらいですから、決して、人目を忍んでませんよね(笑)
逆に言えば、こんなことを堂々といえるくらいの関係が、天智天皇・大海人皇子兄弟の間に、あったというとですね。
しかも、これが歌われたのは、額田王も、大海人皇子も、40歳くらいの時と言われています。
当時の40歳といえば、そろそろ寿命を意識する年齢、お互い笑って言い合える歳だったのかもしれません。
そして、何より、この額田の歌のセンスのよさは、座を豊かなものにしたのではないでしょうか。
ゆきを2つ重ねて期待感を高め、野守は見ずやで、何のこと??とさせて、最後に、君が袖降るを持ってくる、演出効果抜群ですよね。
どうですか?
歴史の教科書では、この時代は律令国家を作るとても大変な時期で、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱など、激動の時代といえます。
当時の権力者は、いつもピリピリしている、そんなイメージがあったんですよね。
でも、この万葉集、中でも、この歌を知った時、ものすごい人間味あふれるものを感じました。
こんなに、のびのびとしたおおらかさが、この時代にはあったんだなと・・・。
現代の私たちが、俳句や和歌を詠んだりするのとは、まるで異次元の力を、この万葉集の時代の和歌には感じるものがあります。
特に、額田王は、この歌とは対照的な、もう一つの「にきたつの」と併せて、そのすごさが際立つ気がします。
皆さんは、どんな風に感じましたか?
まとめ
大海人皇子の妻だったが、後に天智天皇の妻となる。
※ 天智天皇(兄)・大海人皇子(弟)-後の天武天皇
あかねさす 紫野
行き 標野 行き 野守 は見ずや 君が 袖振 る
口語訳
あかね色を帯びている、あの紫の草の野の御料地を行きながら、野の番人は見ていないかしら、あなたが手を振るのを
紫草
の にほへる 妹 を 憎 くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
口語訳
紫草のように美しいあなたを憎く思うのなら 人妻のあなたをどうして恋しくおもうでしょうか
あとがき
万葉集があるなしで、ガラリと、この時代の印象が変わります。
この時代は、やはり「言霊(ことだま)」といって、言葉に特別な霊力のような力が宿っていると考えられていたので、和歌が出来る人というのは、単に教養があるとかいうだけでなかったのでしょうね。
額田王とは、さぞ、特別な存在だったのだと思います。
この歌を詠んだ、その場に居合わせてみたかったですね。
一体、周りの人はどんな反応を示したんでしょうね?(笑)
額田王は、歴史的には謎の人で、生没年も分かっていません。
万葉集以外にも、ほとんど資料が無いようです。
でも、逆に言えば、それだけ歌がすごかったってことですよね。
コメント
かなり自分勝手な解釈です。
紫は→意味不明の色、俗に北方の色を言います。
袖振る、は→石上神社の領地「布留」にかかる枕詞です。
この歌の頃の日本の人口は→240万人から→280万人くらいです。
そんな密度の低い時代に「標の・立ち入り禁止区域を設ける事は、やましいことをやっているからです」
この歌は→石上神社に行った、と言う意味です。(添え書きに、獵に行ったと書いてあります)
実は、猟では無く、天智天皇の実父(石上神社の神主)に会いに行った、と詠んでいます。
天智天皇は舒明天皇の子ではありません。
斉明天皇(皇極天皇)が浮気して出来た子です。
皇極紀「岩崎本」に暗号で書いてあります。
石上・は→昔、武力の本拠地です。
その上(紫)の人→北方化外の人→朝鮮人です。
現在の天皇に「踏み絵」させれば、良く分かるでしょう。
失礼しました。
島田風さん
コメントありがとうございます。
自分勝手な解釈、いえいえとても勉強になりました。
紫に北方を表す意味があったなんて全く知りませんでした。北方というと玄武の玄(≒黒)しか思い浮かばず、紫というと冠位十二階でも高い位の色として扱われているし、紫についてもっともっと知りたくなりました。