『実存主義(じつぞんしゅぎ)』という言葉を聞いたことがありますか?
「じつぞん…」ちょっと耳慣れない言葉かもしれません。
これは哲学で語られる主義で、複数の哲学者が実存主義について、その考えを残していますが、ここでは、20世紀の哲学の巨匠ジャン=ポール・サルトルの提唱する『実存主義』について、解説をしたいと思います。
ただ、サルトルの『実存主義』を説明するだけなら、他のサイトや解りやすく図解などで説明されている書籍が、すでにいっぱいあるので、ここでは、映画「ブレードランナー」を引用しながら、なるだけ解りやすく説明したいと思います。
映画「ブレードランナー」とは一体どんな話?
『実存主義』の話を始める前に、引用する映画「ブレードランナー」について簡単に解説をしておきたいと思います。
まだ、映画を見たことが無いという人のために、ネタバレぎりぎりの説明にとどめておきます。
「ブレードランナー」は、地球の未来を描いたSFです。
ブレードランナーは、エイリアンなどで知られる、リドリースコット監督のものと、その続編という形で、ドゥニ・ビルヌーブ監督の「ブレードランナー 2049」があります。
ここには、人間以外に『レプリカント』と呼ばれる人造の人間(男女)たちが登場します。
このレプリカントは、一見、人間と見分けがつきませんが、レプリカントは当初寿命が短く設計されていて、戦士や愛玩用など目的別に作られていました。
しかしながら、設計した人間の想像を超え、レプリカントは自我が芽生えていくため、人間との扱いの違いによる葛藤からドラマが生まれていくという話です。
まだ見たことが無い方は、是非、一度ご覧になってください。
さて、それでは、サルトルの『実存主義』の説明に入りたいと思います。
「実存は本質に先立つ」(ジャン=ポール・サルトル)
哲学らしい、ちょっと小難しい言い回しですが、要は次のとおりです。
「実存」というのは、『人間の存在』つまり、私たちのことです。
そして、「本質」というのは、その物であることの条件といった意味です。例えば、ノコギリは木や板などを切るために作られていますが、「切る」というのが、ノコギリの本質です。コップは飲み物やうがい用といった液体を中に入れる目的で作られています。
「液体を中に入れる」というのが、コップの本質です。
では、サルトルがいう「実存は本質に先立つ」とは、どういうことなのか?
先にあげた、ノコギリも、コップも、それぞれ切るため、そして液体を入れるためという本質のために作られています。
つまり、本質があって、はじめてノコギリもコップも存在しているということになります。
それはそうですよね、切ることができないノコギリ、液体を入れられないコップなどは、作り出す理由、つまり存在理由がありません。
それに対して、人間の存在(実存)はそれらとは違うということを、サルトルは言っているのです。
人間は、本質が決まって生まれてくるのではなく、生まれてから本質を自らの意思によって作っていく存在です。
つまり、生まれて経験や知識、知恵をみにつけていって、「医者になる」「学者になる」「運転手になる」といった本質を獲得していく存在ということです。
サルトルは次の様ないいかたもしています。
「人間は最初は何者でもないが、人間は後から自分で人間になるのだ」
これは、逆に言えば人間は、他の物と違って、自分で人間になる努力をしていかなければならないということにもなります。
さて、ここで映画「ブレードランナー」の話で、この実存主義を見ていきましょう。
レプリカントは実存が本質に先立つ存在なのか?
ブレードランナーで登場する、レプリカント(人造人間)たち。
見た目は人間と全く区別がつかないため、専門家が眼球の光彩を確認しながら、いくつかの質問をして見極めなければ判別がつかないという存在です。
でも、このレプリカントは、戦士タイプや、愛玩用など、人間にとって都合よく作られた存在です。
つまり、本質(存在理由)が先にあって、あくまで、そのために作られた人間なのです。
従って、実存主義的な分類では、レプリカントはノコギリやコップなどと同じ分類で、いきなり存在して本質を求めていく人間とは、違うカテゴリーということなります。
レプリカントは、寿命も4年間という設定がされています。
また、レプリカントによっては、自分がレプリカントではなく、人間だと思い込んでいる者もあって、いろいろと感情を揺さぶられ、複雑な思いにさせられる、そんな作品が「ブレードランナー」です。
この作品、世界的な哲学者も大好きで、よく引用されたりします。
しかし、人間の存在(実存)は、本当に例外なく「本質」に先立っているのでしょうか?
世界的な視野でみたら、限定的なサルトルの実存主義
実は、サルトルさん、後にレヴィー・ストロースという「野生の思考」などの著書を残している、構造主義を唱えた哲学者との討論で、この実存主義について批判を受けます。
サルトルの主張する実存主義は、西洋文明のある程度裕福な家庭で生まれた子供にしか当てはまらず、貧困を抱えるような子供は生まれた時から、何になるのか決まってしまっているような人生を歩む人達が世界には多くいるということです。
映画「ブレードランナー」のレプリカントがやっていることは、昔であれば奴隷と言われていた人達が請け負ってきたことになります。
日本でも、少し前までは武士の時代、士農工商があって百姓の子供は、百姓以外の選択などはなかった時代、実存主義は、ある意味で人が自分で自由に生き方を選択できる、理想主義でもあるのです。
あとがき
それにしても、実存主義というのは何だか、難しい感じの名前ですよね(笑)
エヴァンゲリオンの綾波レイというキャラクターにもやはり実存主義を感じてしまいますよね。
実存主義ってはまると結構、何でも実存主義で語れてしまう感じがあります(ちょっと乱暴な言い方かもしれませんが…)
でも、それはちょっと偏った考え方に陥ってしまうかもしれません。
哲学に限らずなのかもしれませんが、「これだ!」といって飛びつくだけでなく、是非、様々な人の考えや思想を吟味して、様々な角度から物事を捉えることができる、そんな者にワタシハ ナリタイ…
コメント