尊王攘夷(そんのうじょうい)、幕末の時代劇では、まるでキャッチフレーズのように飛び交う言葉ですよね。
歴史の授業でも、明治維新の話となると、最初に「ペリー来航」と「尊王攘夷」が必ずセットで登場します。
でも、「尊王攘夷とは?」 と聞かれて、パッと答えられる人は、意外と少ないかもしれません。
この尊王攘夷が、江戸幕府を終わらせ、そして明治維新となるきっかけといっても、過言ではありません。
江戸時代の幕末、そして、明治維新という日本史の中でもドラマチックなこの時代を理解する上では、この言葉の意味がすごく重要な意味を持ちます。
歴史好きな人は、是非とも、押さえておきたい言葉です。
今回は、そんな尊王攘夷について、せまりたいと思います。
尊王攘夷とは?まずは概要から・・・
尊王攘夷は、実は二つの言葉を組み合わせています。
- 尊王(そんのう)
- 攘夷(じょうい)
それぞれの意味を、以下で説明します。
王は、天皇の事です(実際の幕末では尊皇と書かれていました)
意味としては、天皇を敬うということです。
江戸時代の幕末の時代に、この言葉が使われる意味は、主に二種類あります。
- 江戸幕府により形ばかりでないがしろにされている天皇を、きちんと国の中心に置いて、天皇の意向に従った国にするというもの、これは、やがて江戸幕府を倒すという倒幕や、天皇に政権を戻す王政復古の思想へとつながります。
- 江戸幕府は存続した上で、天皇と幕府が共に力を合わせていくというもの、この考えを公武合体といいます
攘(じょう)には、はらう、払いのけるといった意味があります。
夷(い)は、もともと蝦夷(えみし・えぞ)といった異民族に対して使われている言葉でした※参照
江戸幕府の幕末の時代に、この「 夷 」は何を指しているかというと、日本に開国をせまる、アメリカを初めとする外国(欧米列強国)です。
従って・・・
意味としては、開国をせまる欧米列強を、討ち払え ということです。
※ 征夷大将軍という名前も、もともとは異民族である夷を征服することが目的で生まれたポジションでしたが、後に武家のトップで政治の中心人物こ与えられるものになりました。
つまり、尊王攘夷とは・・・
という意味です。
ペリー来航と尊王攘夷
1853年に、東インド艦隊司令官のペリーが黒船艦隊4隻を率いて浦賀に来て、日本に開国をせまります。
この時は、1年間の猶予を与えて、一旦引き上げるのですが、翌年1854年に、今度は7隻の艦隊を率いてやってきます。
ついに日本は、日米和親条約 を締結、開国することになります。
初の来航後、幕府は内外に、広く対応策を求めるんですが、ここで湧き上がったのが、尊王攘夷です。
この時代の孝明天皇が、開国することを非常に嫌がり、かたくなに攘夷を唱えます。
このことが、尊王攘夷に火をつける形で、広まっていきました。
しかし、結局は幕府は開国し、やがて天皇も、もはや鎖国ではいられない時代であることを悟ります。
攘夷が出来ないということが、わかると、尊王攘夷は、やがて幕府を倒すという倒幕や、天皇家と将軍家が力を合わせる公武合体(こうぶがったい)に、その思想が移っていきます。
尊王攘夷は、意外にも水戸藩から!?
語源は、中国の春秋時代(紀元前770-403)です。
西周という大国が分裂し、それらの国同士で対立していた時代です。
(三国志の時代より、さらに200年くらい前)
この時代の周という国の王を敬い周囲の外敵を討ち払うということから、生まれた言葉で、それが後に日本にも伝わりました。
「 尊王攘夷 」という言葉、幕末を描いた時代劇では、薩摩藩や長州藩といった、反幕府側の人達が、使っているイメージが強いですよね。
でも、実は、この言葉が世に出たきっかけは、徳川御三家の一つ水戸藩からです。
この水戸藩には、水戸学 と呼ばれる、藩校の弘道館を中心に教えていた独自の学問があります。
水戸学というのは、簡単に言うと、古事記や日本書紀に始まる日本古来の伝統・文化・思想を学び追求していくものです。
幕末期に、水戸藩主で、最後の将軍・第15代徳川慶喜の父の 徳川斉昭 が弘道館を建て、そして弘道館での教えをシンボル的に表現したものが「尊王攘夷」でした。
この弘道館は、江戸にも建てられ、水戸学は、藩の枠を越えて影響力があり、全国に尊王攘夷派を生むことになりました。
尊王攘夷について、幕末における意味をメインに書いた投稿は、別にあります。
よろしければ、そちらも、是非ご覧ください。
尊王攘夷の幕末における意味とは?3つのポイントで簡単に!
まとめ
意味
天皇を敬い、外敵を討ちはらう。
江戸時代の幕末における尊王攘夷
- 尊王には、天皇による政治という意味もあれば、天皇を敬った上で幕府を存続させるといったものなど、様々な考えがある。
- 攘夷は、欧米列強を討ち払うという意味。
あとがき
明治維新は、尊王攘夷vs開国 からスタート。
将軍継承問題(一橋慶喜or紀州慶福)を経て・・・
倒幕or公武合体、または王政復古vs公議政体制に変化をしていきます。
尊王攘夷⇒倒幕⇒王政復古と進んだ人もいれば、開国⇒公武合体⇒公議政体制と進んだ人もいます。
このあたりが、同じ尊王攘夷派なのに、やってることが違って敵になったり味方になったりと、幕末を難しくしているような気がします。
でも、逆に言えば、それが幕末のおもしろさなんですけどね(笑)
ある意味で、明治維新の立役者は、幕末のあの時期に、欧米列強と戦争をせずにあっさりと「 開国 」をした江戸幕府にあると思います。
阿部正弘も井伊直弼も、やはり優れた人だと個人的には思います。
もしも、幕府が攘夷に踏み切っていたらと思うとゾッとしますよね。
尊王攘夷について、幕末における意味をメインに書いた投稿は、別にあります。
よろしければ、そちらも、是非ご覧ください。
尊王攘夷の幕末における意味とは?3つのポイントで簡単に!
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