哲学的ゾンビ(哲学ゾンビ)というものを知っていますか?
哲学の話というと、何か難しそうなイメージがあるかもしれません、また、ゾンビというと、ジョージ・A・ロメロ監督のホラー映画『ゾンビ(原題:Dawn of the Dead)』を思い浮かべる人も多いでしょう。
でも、哲学は用語がちょっと馴染みがないだけで、人間とはなんだろう?幸せになるには?といった、普段、誰しもが考えることをまとめただけのものです。
また、映画のゾンビとは、全く別物です。
今回、このテーマをとりあげようと思ったのは、『下校時刻の哲学的ゾンビ』(ダヴィンチ・恐山作)という、簡潔だけど素晴らしくよく出来た漫画に出会ったからです。
この『下校時刻の哲学的ゾンビ』という漫画を通して、哲学的ゾンビについて、ひも解いていきたいと思います。
『下校時刻の哲学的ゾンビ』から読み解く
早速ですが、是非、ダヴィンチ・恐山さんの『下校時刻の哲学的ゾンビ』を以下のリンクから見てください。
【漫画】下校時刻の哲学的ゾンビ
どうですか?
さて、漫画の解説の前に、哲学的ゾンビとは一体何なのかについて、簡単に説明をしたいと思います。
哲学的ゾンビは、いわゆるゾンビとは、まるで違う
さて、ゾンビというと、真っ先に目に浮かぶのは、こんな感じですよね?
見た目で、普通の人間ではないということが、すぐに分かります。
でも、哲学的ゾンビ(又は 哲学ゾンビ)は、見た目、そして行動では普通の人間とは区別がつかない存在です。
では、普通の人間と哲学的ゾンビでは、何が違うのか?
それは、クオリアがあるか、ないかというとこです。
哲学的ゾンビは、クオリアを持たない人間なのです。
例えば、立派な赤いリンゴがあったとします。
それを見て「赤くて綺麗だなぁ~」
匂いを嗅いで「あ~いい香りだなぁ~」
食べてみて「うわぁ~甘酸っぱくて美味しいなぁ~」
こういった自分が何かを体感する『感じ』です。
この『感じ』は極端に言ってしまえば、『心』と言い換えられるかと思います。
つまり、『心』があるのが普通の人間
『心』が無い、主観的に何かを感じることが出来ないのが、哲学的ゾンビだということができます。
でも、心が無いような人間(哲学的ゾンビ)は、すぐにでも、その違いに気づくのではないか? そんな疑問がわくと思います。
しかし、ここが哲学的ゾンビのことを理解するうえで、大事なところなのですが、哲学的ゾンビは、心はないにもかかわらず、「君は心を持っているの?」と問われれば、「もちろん、私は心を持っているよ」と答えます。
そして、先に挙げたリンゴを見れば、「赤くて美しい」って答えます。
つまり、喜怒哀楽の感情も含め、生理科学的な反応としては、普通の人間と全く同じで、違いを認めることは誰にもできない存在なのです。
でも、哲学的ゾンビは、普通の人間とは全く異なる存在です。
さて、ここで哲学的ゾンビとは、一体何のために生まれた概念なのか?ということを、説明したいと思います。
哲学的ゾンビの産みの親 デイビッド・ジョン・チャーマーズ

By en:Image:Sea8.jpg, from David Chalmer’s website: http://consc.net/chalmers/ with permission., CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1429727
哲学的ゾンビは、チャーマーズというオーストラリアの哲学者が思考実験として提唱したものです。
これを使って彼は一体何を、明らかにしたかったのか?
それは、人間が物理化学的なものだけで構成されているという、物理主義を否定するために、生まれた概念です。
『クオリア』を持つ普通の人間と、持たない哲学的ゾンビ(物理化学的に物質として作られただけ)、この二つは、見た目は区別はつかないが明らかにそれらは違うということで、『心』という物質では説明がつかないものが存在するということを主張したのです。
さて、ここで改めて、最初に見て頂いた漫画『下校時刻の哲学的ゾンビ』について、私なりの解釈を説明していきたいと思います。
『下校時刻の哲学的ゾンビ』についての解釈
この漫画は、コマ割りがちょっと変わっていることにお気づきだと思います。
普通の漫画としての画面、つまりカメラ視点的な画面が真ん中にあって、左右に小さなコマがあります。
左の画面は、最初、主人公の大朋さんの視点として描かれています。
右の画面は、常に、真っ黒です。
でも、意識がなくなる(つまりクオリアを失う)キャラメルもどきを食べた後、目をつむった状態から、目を開け、かすかに龍野さんが映った後に目は開けているのに左のコマは黒くなります。
この時点で左のコマは、視点ではなく意識に置き換わっているということが言えるのではないかと思います。
右側のコマが常に黒いのは、龍野さんの意識(前日にクオリアを失うキャラメルを食べているので最初から黒)を表しているのではないかと思います。
つまり、二人とも、キャラメルを食べてしまったために、哲学的ゾンビになってしまったということを表しているということになります。
一見、冗談だったとして終わらせていますが、絶対に区別がつかないというところが重要で、クオリアがあるないを漫画ならではのコマ割りという手法で、うまく描いていると思います。
小説では、ちょっとどう表現してよいのか難しい題材だと思います。
まとめ

デイヴィット・ジョン・チャーマーズ
オーストラリアの哲学者
クオリアや哲学的ゾンビを提唱し、心を物質とみなす物理主義を批判 クオリア
主観的に体感する『感じ』
例:痛い、おいしい、嬉しい、楽しいといった心の中の感覚 哲学的ゾンビ
物質で作られた『クオリア』を持たない哲学的ゾンビは、普通の人間とは違うが、それを傍目に見極めることは出来ない。
そういう存在を提示することで、チャーマーズは心の存在を主張した。
あとがき
心をめぐる哲学は、身心二元論など、様々な哲学者が挑み続けている問題です。
また、心をどうとらえるかは、様々な哲学があり、それらをもとにした小説や漫画なども多くあります。
攻殻機動隊なども、その中の一つですよね。
下校時刻の哲学的ゾンビについては、右側のコマが本当に龍野さんの視点なのかどうかは、正直言うと自信がありません。
というのも、左のコマが視点として使用していたものが、唐突に「意識・クオリア」を失うものとして描かれていることに少し違和感を感じています。
視点=意識ではない(視点が無くても意識は存在するのは自明)ので、あそこで急にコマの意味を変えるというのは、ちょっとナンセンスな気もしていて、つまり、そう解釈した私の理解が違っていて、本当は右側のコマにもっと深い意味があって真っ黒なのではないのか…という気持ちがありました。
ただ、いくら考えても理由付けが自分の中でできなかったので、こういう理解にしました。
でも、作者の立場に立てば、逆に、ちょっとした引っ掛かりを作って、読み手が様々に解釈することを目指したのかな?とも思えて、色んな意味でよく出来た作品だと感心しています。
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