尊王攘夷(そんのうじょうい)、これは、尊王と攘夷という、二つの言葉を組みあわせたものです。
幕末を舞台とした時代劇では、必ず登場するスローガンですよね。
日本史の中で、この幕末は、尊王攘夷だけでなく、公武合体や、大政奉還、王政復古など、四字熟語さながらの言葉が多くて、歴史のテスト勉強では、覚えるに苦労したことを思い出します(笑)
尊王攘夷という言葉の意味は、わかるけど・・・
その、尊王攘夷が、幕末においてどんな意味を持っていたのか?
今回は、そんな幕末のスローガンともいえる尊王攘夷について、ポイントを3つに絞って、説明したいと思います。
尚、尊王攘夷という言葉の意味をメインに書いた投稿は、別にあります。
もしも、ご覧になっていない場合は、まず、こちらをご覧ください。
尊王攘夷とは?これが幕末スタートのキーワード!
幕末における尊皇攘夷
尊王攘夷の3つのポイント
- 引き金はペリーだけじゃない!?
- 孝明天皇は大の外国嫌い!?
- 本当に攘夷、やっちゃった!?
それでは、早速各ポイントの説明に入ろうと思いますが・・・その前に
歴史があまり得意でないという方もいらっしゃるかもしれません。
各ポイントの説明に入る前に、幕末という時代を知る上で、これだけは、押さえておきたい!という内容を、最初にご紹介します。
これを見ておくことで、各ポイントの説明も、スムーズに入っていけますので、是非、ご覧になって下さい。
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- 江戸時代後期の江戸幕府
特に、天保三年(1833)の天保の大飢饉では、幕府のあまりの無策ぶりに、大阪町奉行の元与力だった大塩平八郎が乱を起こす事態に(天保八年-1837)
その後、老中 水野忠邦 により、天保の改革(天保12年-1841)が行われます。
これにより徹底した倹約を強いた為に、庶民の不満がさらに増大。
また、物流の流れを止めるような施策をしたため物価は上昇。
更には、上知令(じょうちれい)といって、江戸と大阪の周辺地の藩領・旗本領を、幕府が没収しようとしますが、大名、旗本の猛烈な反対にあい実現できず、水野は失脚、幕府の権威は失墜することになります。
これらの事により、庶民から、大名、旗本にいたるまで、幕府への信頼を失っていました。
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- アヘン戦争
また、この後、1856年のアロー戦争でも、清はイギリス・フランスに敗れます。
これらの戦争後に敗戦国として結んだ、南京条約・北京条約 は、清が欧米列強の半植民地となるような条約でした。
欧米列強の近代兵器の前に、全く相手にならなかった大国の清、このことに江戸幕府は驚愕を受けます。
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- 鎖国(さこく)
これにより、オランダなど一部の国を除いて、貿易などの通商だけでなく、船が寄航することも禁止ししています(1640年頃)
それから、幕末までの約200年間、ほとんど外国と交易をしていません。
この間、欧米列強の文化や技術なども、ほとんど入ってきません。
また、国内でも大きな内乱なども起きなかったので、鉄砲や大砲などを作ったり、新たに武器を開発したりする必要もなく、幕末の頃には、世界との武力の差は歴然となってしまっていました。
国を閉ざした鎖国から、国を開ける事を、開国と呼びます。
まとめると、幕末を迎える時期、江戸幕府は次の様な状況にあったといえます。
- 江戸幕府は、かなり弱体化していていた
- 欧米列強の脅威にさらされていた
さて、それではいよいよ尊王攘夷に関する、各ポイントを見ていきましょう。
ポイント1 引き金はペリーだけじゃない!?
アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の黒船艦隊を率いて日本に来航したのが、嘉永六年(1853)です。
しかし、実は、その7年前に、ペリーの前任者のビッドルが来航して幕府に通商を求めています。 この時は、幕府はかたくなに要求を拒んでいます。
幕府は、ペリーには一年後に回答するとして、一旦引き上げさせています。
しかし、今度はロシアのプチャーチンが開国を要求して来航しています。
こういった、欧米列強が、次々と日本に開国をせまるには、その背景に、アヘン戦争、アロー戦争での「清」の惨敗があります。
翌年の2度目のペリー来航で、ついに幕府は開国することとなります。
さて、ここでの尊王攘夷の意味です。
尊王攘夷の「攘夷」ですが、これは「外敵を討ち払え」という意味になります。
つまり、日本に来た、アメリカを初めとする欧米列強に対して、これを攻撃して倒せという意味です。
ペリー来航時、老中だった阿部正弘は、この事態を重くみました。
従来の様に、幕府だけで方針を決めずに、朝廷や各藩、幕臣など多くの意見を取り入れて、対応策を練ろうとしました。
国をあげて検討するべき・・と考えたんですね。
しかし、ここで、意見は、攘夷派と開国派に分かれます。
この攘夷派と開国派は、分かりやすく言えば、次の通りです。
- 欧米列強と戦っても勝てる ⇒ 攘夷派
- 欧米列強と戦ったら負ける ⇒ 開国派
なかには、負けてもいいから戦うべきと考えていた人もいるのかもしれませんが、基本的に戦って勝てると思っている人達が攘夷派です。
それに対して、開国派は、戦ったら絶対に負けて、「清」の二の舞になると考えていました。
意見はまとまらないままに、幕府は「開国」の選択をする事となります。
この弱腰の姿勢に対して不満を持つものも多く、既に弱体化の兆しのあった江戸幕府は、その求心力を失い、そして、やがて倒幕という考えが生まれるきっかけとなります。
ポイント2 孝明天皇は大の外国嫌い!?
この幕末期の天皇は・・・
第121代孝明(こうめい)天皇です。
実は、孝明天皇、大の外国嫌いでした(笑)
特に、ハリスと日米修好通商条約(安政五年-1853)を幕府の大老・井伊直弼 が、天皇の 勅許 (許可)無しに締結したことに腹を立て、尊王攘夷派の水戸藩の 徳川斉昭 に、攘夷をするような幕政改革を命じます。
しかし、幕府を通さず直接、命じたことに、今度は井伊大老が、幕府をないがしろにしているとして、尊王を唱える者たちを厳しくとりしまります
( 安政 の大獄 )
こういった、幕府の強行姿勢に、反発も多く、大老・井伊直弼は桜田門外の変(万延元年-1860)で水戸の脱藩浪士に暗殺されることになってしまいます。
孝明天皇は、尊王攘夷の考えは強く持っていたものの、「倒幕」は考えていませんでした。
それよりも、朝廷(天皇)と幕府(将軍)が力を合わせることが大事で、公武合体(こうぶがったい)を考えていました。
実際、その象徴として、妹の 和宮親子 内親王を、第14代将軍・ 家茂 の正妻として嫁がせています。
しかし、幕府の弱体化によって、すでに沸き起こっていた「倒幕」に時代は傾いていく事になります。
孝明天皇は、慶応二年(1866)に36歳という若さで突然、崩御されます。
理由は、天然痘による急死となっていますが、倒幕派による毒殺説もあります。
ポイント3 本当に攘夷、やっちゃった!?
実は、本当に攘夷をやってしまった藩が2藩あります。
どの藩だか分かりますか?
答えは、後に幕府を倒すことになる、以下の藩です。
- 長州藩
- 薩摩藩
攘夷をやる気まんまんだったのが、長州藩です。
しかし、尊王攘夷派の長州藩は、下関海峡を通過する船を次々と砲撃します。
- アメリカ商船:ペムブローグ号(5月10日)
- フランス軍艦:キンシャン号(5月23日)
- オランダ軍艦:メジュサ号(5月26日)
これに対して、アメリカ・フランス・イギリス・オランダが復攻撃を長州藩にしかけます。長州藩は、軍艦を撃沈され、さらには下関も占拠されてしまいます(四国艦隊下関砲撃事件)。
次に、薩摩藩の攘夷についてですが、こちらは、積極的というよりは、やや仕方なくといった感じです。
きっかけは、その前の年にあった生麦事件です。
薩摩藩の島津久光が、江戸から薩摩へ帰る途中、横浜の生麦という場所に差し掛かったところ、馬で遠乗りを楽しんでいたイギリス商人以下四人と遭遇します、下馬もせず行列を行く手を阻んだとして、薩摩藩士がこのイギリス商人を斬ってしまいます(生麦事件)
この事による、報復としてイギリス側に攻められて、薩摩藩は被害を受けることになります。
攘夷を実行し、惨敗したことにより、長州藩、薩摩藩は、攘夷が不可能だということを身をもって悟ります。
そして、欧米列強から、こういった技術や武器を取り入れ、そして国そのものを、欧米列強に負けない近代国家にしていかなければならないという考えになります。
そうした考えが、やがて維新を成し遂げる結果へとつながっていくことになります。
まとめ
欧米列強の脅威
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- アヘン戦争・アロー戦争での大国・清の惨敗ぶり知っている幕府は、欧米列強と戦争をする気は無く、開国という選択をした。
孝明天皇
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- 外国嫌いの孝明天皇という存在が、尊王攘夷派の旗頭となる。
やがて、その中に倒幕という考えが生まれるが、孝明天皇自身は、朝廷と武家が力を合わせるという、公武合体の考えを持っていた。
そのため、毒殺されてしまったという説もある
- 外国嫌いの孝明天皇という存在が、尊王攘夷派の旗頭となる。
長州藩・薩摩藩
- 実際に、攘夷を行った2藩、全く歯が立たず、攘夷は不可能なことを身を持って悟る。
そして、逆にこれらの国から技術や武器を取り入れ、更には国家そのものを、欧米列強に負けない近代国家にしなければならないという考えに発展する。
この2藩が、後に強力して倒幕し維新を達成することになる
あとがき
幕末、明治維新の最初に、「攘夷 or 開国」で議論が分かれます。
ここで、開国という選択肢が正解で、幕府が天皇や攘夷派の言うとおり、国をあげて欧米と戦争をしていたら、植民地化は免れなかったでしょうね。
ある意味で、幕末の老中や大老が、開国に徹したからこそ、救われたといってもいいような気がします。
また、「失敗から学ぶ」といいますが、長州藩にしても、薩摩藩にしても、実際に攘夷を実施し惨敗したからこそ、近代国家の重要性を身を持って学んだんでしょうね。
攘夷を実施して、コテンパンに叩きのめされた2藩による、維新の達成というのが、皮肉というより、歴史や物事の本質をついているような気がしてなりません。