今、抹茶がすごいブームですよね。
どんなもので、抹茶味、抹茶フレーバーで出されている感じです。
茶道自体も、人気があるようで、茶道教室なども申し込みが増えているようです。
茶道のたしなみがある男性・女性ってなんかカッコぃぃですよね
でも、そんなお茶に、「裏千家」と「表千家」というのがありますよね。
更には、「武者小路千家」というのもあったりします。
一体、何が違うんでしょう?
千利休から始まる「千家」、ブランド企業などにありがちな、本家と分家の対立で三つに分裂したのでしょうか?
今回は、そんな、裏千家と表千家、そして武者小路千家の違いについて迫りたいと思います。
三千家の誕生
表千家・裏千家・武者小路千家、この3つの千家を、三千家といいます。
以下の図をご覧ください
初代 利休
侘茶(わびちゃ)のスタイルを確立した千家は、千利休を開祖としてスタートするのですが、ご存知のとおり、利休は当時の最大権力者である豊臣秀吉に、うとまれ切腹を命じられてしまいます。
二代 少庵
千利休の養子になっていた少庵(しょうあん)が、利休切腹の後、秀吉に許されて京に千家を再興し、「不審庵(ふしんあん)」など利休に所縁のある茶室を再建します。
また、仏門に入っていた、息子の宗旦(そうたん)を、還俗(げんぞく)させ、侘茶の普及に努めます。
三代 宗旦
宗旦は、利休が確立した侘茶の厳しさを深く追求し、晩年には、四畳半より更に狭い、約二畳(一畳台目)の茶室「今日庵(こんにちあん)」などを建てています。
また、徳川家や加賀藩前田家に、息子たちを茶頭として仕官させるなど、精力的に千家の復興及び侘茶の普及に努めます。
四代 宗守・宗左・宗室 (三千家のはじまり)
千利休の「ひ孫」にあたる、四代目の世代のときに、三千家が誕生します。
さて、いよいよ三千家の誕生ですが、ちょっと気になりませんか?
家系図の中で、長男 宗拙(そうせつ)は、千家を立ち上げていませんよね。
本来なら、宗旦の跡継ぎのはずですよね、なぜなんでしょう?
そのあたりも含め、宗旦の息子について、簡単に説明します。
- 長男 宗拙(そうせつ)
経歴が不明
宗旦に勘当されたという説がある、また加賀藩前田家へ仕官したとも - 次男 一翁宗守(いちおうそうしゅ)
塗師へ養子に出されていたが、後に戻り「武者小路千家」を興す - 三男 江岑宗左(こうしんそうさ)
正式な宗旦の跡取り「表千家」紀州徳川家の茶頭 - 四男 仙叟宗室(せんそうそうしつ)
加賀藩前田家に仕官するが、後に「裏千家」を継承する
実は、長男の宗拙がなぜ、宗旦の後を継がなかったのかは、よくわかっていません。
父親の宗旦と折り合いが悪く、勝手に家を出たとも、勘当されたともいわれています。
次男は、漆屋へ養子に出されていたので、宗旦が隠居を決めた時、千家の「不審庵」は三男 宗左が跡を継ぐことととなりました。
そして、自身はその不審庵の裏手に、新たに今日庵という庵を作り、それが、 後に一緒に暮らしていた四男 宗室に引き継がれることになり「裏千家」となります。
また、次男の宗守も、漆屋から茶人として生きる道を選び、武者小路千家を興すことになります。
こうして、三千家が誕生しました。
表と裏、そして武者小路とは?
それにしても、名前の表千家、裏千家、武者小路千家って、何かいわくありげな名前ですよね。
この名前の由来は、三男 宗左の「不審庵」の裏手に「今日庵」があることから、宗左の不審庵を表千家、宗室の今日庵を裏千家と呼ぶようになりました。
また、武者小路千家は、不審庵、今日庵より少し、南に下りたところにある武者小路という道沿に官休庵(かんきゅうあん)があることから、その通りの名前をとり、武者小路千家と呼ばれるよになりました。
本家筋は表千家、分家筋が裏千家です。
分かってしまえば、単純ですよね。
でも、この三千家、有名ブランドにありがちな本家と分家、跡取り騒動のようなことがあったのでしょうか?
兄弟は仲が良かった?
今の様に、各千家がまるで違う流派の様な、扱いとなったのは、実は最近で明治時代以降のようです。
それはまでは、三千家といっても共同体の様な感じでした。
この兄弟とても、仲が良かったんじゃないでしょうか?
三人ともにすごく近くに庵を構えているということは、お互い助け合ったのでしょう。
恐らく、徳川御三家(紀州・尾張・水戸)が徳川将軍家を守るためにあったのと同じように、三千家は、千利休、そして宗旦の極めた、侘茶を守るために協力したと思われます。
後になって、これ以上、千家が増えることを避けるために、七代・表千家の如心斎(じょしんさい)が、千家を名乗れるものは、表・裏・武者小路から各一人のみと決めました。
つまり、跡取り以外は、千家を名乗ることが許されなくなりました。
また、八代・表千家の啐啄斎(そったくさい)は、一子相伝にしたので、奥義は代々跡取りにしか伝えられなくなります。
このことで、千家が三千家から増えることはなくなり、各家の家元という制度が確立されていくことになります。
目立つ裏千家!?
それにしても、三千家の中で、裏千家って一番目に付きますよね? 本家筋にあたる、表千家よりも何かとニュースなどでも話題になります。
皇族などの国賓が来て、お茶を点てるとなると「裏千家」の家元が登場します。
これは、どういうことなのでしょうか?
実は、16代千玄室さんの奥さまが、三笠宮崇仁親王の次女容子内親王なんですね。
つまり、皇族と姻戚関係にあたるので、この関係もあって国賓クラスの人が来ると、裏千家にお点前の依頼がいくのでしょう。
それと、表千家はやはり本家筋ということもあって、スタンスは割りと保守的で伝統文化、格式を重んじているのに対し、分家筋の裏千家は、伝統は守りつつ茶道の発展のために、色々と新しい試みを行っているとういのも、メディアなどの露出の差になっている一因のようです。
まとめ
初代千利休の孫にあたる、三代宗旦の三人の息子が、それぞれ千家を名乗った
表千家
三男 宗左 「不審庵」
千家の本家筋 名前の由来:敷地の表側にあるため
裏千家
四男 宗室 「今日庵」
名前の由来:敷地の裏側にあるため
武者小路千家
次男 宗守 「官休庵」
名前の由来:武者小路という通り沿いにあるため
あとがき
お茶の世界って、色々奥が深いですよね。
ちなみに、表千家と裏千家ってお点前の上での差は、ほとんど無いようです。 窯(かま)の蓋(ふた)を素手でとる、帛紗(ふくさ)でとるとか、細かい違いだけの様ですね。
このあたりは、「お点前の研究 – 茶の湯44流派の比較と分析」という本が大隅書店から出されています。
そちらに44流派の違いが表で分かりやすく出ていますので、参考にして下さい。
それにしても、やはり謀反の疑いをかけられた利休さんが亡き後、少庵さんも、宗旦さんも必死だったんでしょうね。
宗旦さんは、その苦しみが侘茶を極める、余分な物を更にそぎ落とすということに現れているんじゃないでしょうか・・・
息子たちには、それぞれを徳川家、前田家など、有力大名に仕官させるなど、本当に生活の苦しさ、立場の弱さを痛感したからこその、必死さが伝わってくるようです。
三千家が共に上手くいったのも、そんな父宗旦、少庵、そして、やはり偉大な曽祖父、利休の姿があったからなのでしょう。
お茶の文化は、武士道や仏教も含めて、日本の文化の全ての要素が入っているように思えます。
コメント
茶道を習って8年目です
裏千家と表千家、よく耳にする言葉ですが
違いがよくわかりませんでした
とっても勉強になりました
図をみて、これ以上わかりやすい解説は、ないでしょうね!
素晴らしいです
ありがとうございました
茶道は習っておりません。ある神社のお祭りの一室でいただいて抹茶の美味しさを知り、自宅でカフェオレボウルでお茶の時間に手軽にいただいています。それでも表千家、裏千家に興味があり、こちらに伺いました。わかりやすく興味深く読ませていただきました。兄弟仲が良かったようだと知り、ますます抹茶の時間が楽しみになりました。ありがとうございました。
もう一つ増えると4千家ですね