「駆け込み寺」 という言葉、知っていますか?
なんとも不思議なネーミングですよね。
何か困ったことがある時に、助けを求めてとりあえず駆け込む場所を、駆け込み寺と呼びます。
別に、駆け込む場所が、お寺である必要はありません。
では、なぜ駆け込み寺 なのか?
実は、そこには現代には無い、江戸時代ならではのルールがありました。
そんな「駆け込み寺」の意味、由来に、せまりたいと思います。
現代の言葉としての「駆け込み寺」
まず、現代でこの言葉が、どんな感じで使われているのか、見てみましょう。
こんな感じの宣伝を、見たことがあるんじゃないでしょうか!?
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- 営業マンの駆け込み寺!そんな悩めるあなたを救う、いろは営業アカデミー
- パソコン初心者でも大丈夫!パソコンの駆け込み寺、ABCパソコンスクール
- 髪に悩むあなたの駆け込み寺になります。123育毛研究所
- 勉強嫌いな子でも大丈夫!成績アップへの駆け込み寺、あいうスクール
※ 実在の会社・スクールではありません
どうですか?
色んな業種で使われていますね。
「駆け込み寺」というのは、あくまで例えであって、別に、実際のお寺や、仏教に関係しているものでは、ありませんよね。
駆け込み寺の言葉の意味
駆け込み寺の意味は、どういうものか、改めてみてみましょう。
現代では、次の様な意味で使われています。
先ほどの例でいけば、パソコンの使い方に困っている人、営業成績が悪くて困っている人に向けて、宣伝している広告のキャッチコピーですよね。
それでは、その例えで使っている「駆け込み寺」とは一体、どういうものなのか?
そのルーツをたどりましょう。
駆け込み寺とは?
駆け込み寺には、別名があります。
実は、それを知ると、駆け込み寺の元々の意味を、一気に理解できます(笑)
その別名とは・・・・
「縁切り寺」 です。
出雲大社や、華厳寺、明治神宮など、縁結びの神様や仏様は聞いた事がありますが・・・
まさかの、縁切りのお寺です(笑)
実は、これ縁結びとは違って、神仏にすがって縁切りを願うためではありません。
江戸時代には、離縁(離婚)を調停する機関として、江戸幕府公認の、指定されたお寺があったんです。
ちょっと、びっくりですよね・・・
縁切り寺
さて、江戸時代の離縁については、現代とは、まるで違います。
江戸時代、離縁は、夫から妻に一方的に言い渡すもので、妻の側から離縁を求めるということが出来なかったんです。
離縁状(いわゆる、 三行半 )は、夫が妻を離縁するためだけのもので、妻が夫を離縁するシステムはありませんでした。
現代では、三行半(みくだりはん)というと、男性が女性につきつけられるイメージですよね(笑)
こちら ⇒ 三行半(みくだりはん)の意味とは? 2ステップでお伝えします!
縁切り寺は、妻が離婚を求めてくると、その要求を受け入れ調停するという、まるで奉行の様なことをする特権が与えられていました。
また、夫側が縁切り寺の調停に応じないといった場合には、寺社奉行がこれをサポートするという体制まで整っていました。
ただし、どの寺でも良いというわけではなく、次の二つのお寺が指定がされています。
- 松岡山 東慶寺 (神奈川県鎌倉市)
- 徳川山 満徳寺 (群馬県太田市)
さて、江戸時代の女性は、離婚を望んだ場合、どうしたのでしょうか?
具体的に、駆け込みの流れを見ていきましょう。
離縁までの流れ
駆け込み
離縁をしたいと思った女性は、とにかくこの東慶寺か、 満徳寺に行かなければなりません。
頼る人も無く、女性一人での旅は、さぞ大変だったと思います。
夫に見つかれば、連れ戻されるのは必至です。
それで、駆け込むように逃げ込むことから、縁切り寺が、いつの間にか、駆け込み寺と呼ばれるようになったようです。
そして、この「駆け込み」が離縁の手続きの第一歩 ということになります。
お寺に入りさえすれば、女性はお寺に保護され、離縁の調停に入ります。
そうなると、夫といえども、勝手にお寺に入って連れ戻すということは許されません。
満徳寺の場合には、体の一部が入っていなくても、履いていた草履(ぞうり)など、身につけていたものが、寺の中に投げ入れられても成立したようです。
履いていた草履を投げ入れている女性、それを住職が中で手を差し伸べています。 また、寺の中では既に駆け込んだ人の、相談が進められているようです。
身元調査・話し合い・示談
駆け込みで入ってきた女性は、お寺から保護された上で、まず身元調査がされます。
ここで重要になるのが、離縁の「理由」です。
離縁にいたる問題が、妻の側にある場合には、受理されず、追い返されることになります。
なんでもかんでも、助けてくれるというわけではないんですね(笑)
理由が正当であった場合には、その女性の親や親族が呼ばれて、話し合いがもたれます。
これは、できれば親族とも相談して、夫のもとに戻り、もう一度やり直すことが出来ないかを検討したようです。
それでも、離縁の意志が固い場合には、夫が呼び出され双方の言い分を確認します。
ここで、夫が離縁に応じれば、夫が通常の手続きで離縁状、いわゆる「三行半(みくだりはん)」を書いて、そのまま離縁が成立します。
これを、内済(ないさい)といって、今で言う 示談 の事です。
駆け込みの、約9割は、この 内済 で済んだようです。
しかし、示談がうまく成立しなかった場合には・・・
示談不成立の場合
示談が成立しないと、寺役人が「寺法書」という離縁に応じるよう求めた書状を、夫ではなく、名主に送ります。
名主というのは、その夫が住む町や村の長で、この書状を受け取るということは、それなりの責任を持つという事を意味していました。
名主からしてみれば、完全に巻き込まれる形となり、夫に離縁状を書くように依頼・要求することになります。
あまりに強情だと、奉行が出てきて牢屋に入れる事もあったようなので、さすがに、ここまで来ると、夫も離縁状を書くことになります。
離縁状の後
寺法書が出た後に、離縁状を書いたものは、寺法離縁状と言われて通常の離縁状とは扱いが違います。
これは、お寺に届けられお寺で保管することになります。
そして、妻は、そこから二十四ヶ月間、お寺で奉公をした後、離縁状を受け取る事ができます。
いくら駆け込み寺とはいえ、当時の法律の下では、女性からは、簡単には離縁できなかったんですね。
まとめ
駆け込み寺の言葉としての意味
困った時に助けを求めて行く場所 や人の事
実際の駆け込み寺
縁切り寺といわれるお寺で、妻側が離縁を求める場合、幕府公認の縁切り寺に入り、寺社の保護のもと離縁状を夫に書いてもらう必要があった。
逃げるように助けを求めて駆け込む事から、駆け込み寺と呼ばれるようになった。
幕府公認の駆け込み寺
- 松岡山 東慶寺 (神奈川県鎌倉市)
- 徳川山 満徳寺 (群馬県太田市)
あとがき
江戸時代に、こんなシステムがあったということに驚きです。
しかも、現代と違って、ドライかウェットかと言えば、すごくウェットですよね(笑)
まず、親や親族を呼んで話し合い、できればよりを戻させたい。
それでも、だめなら夫を呼んで、大事にしないで普通に離縁をさせたい。
それでも、だめなら名主から、夫を説得するようにさせて・・・
とにかく色んな人を、巻き込んでいきます。
江戸が人情話になるのは、やはりこういったウェットなところからきているんでしょうね。
現代では、失われてしまった人同士のつながりが、縁切りのシステムにも、感じる事ができます。
江戸に学ぶ、歴史に学ぶ・・・あらためて、その思いが強くなりました。
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