吉田松陰の名言!至誠の意味とは?これぞ究極の生き方

中国文化・思想

吉田松陰(よしだしょういん) 」  幕末の偉人ですね。
Yoshida_Shoin2 幕末というと、 坂本龍馬 さかもとりょうま 西郷隆盛 さいごうたかもり 土方歳三 ひじかたとしぞう といった、歴史上人気の高いの人物が多くいます。

幕末に人気のある人物のほとんどが、幕末後期まで生きていますが・・・

吉田松陰は、幕末と言われる時代が始まって、すぐに、安政の大獄で亡くなってしまいます。
享年30歳(満29歳)という若さでした。

吉田松陰の人気は、そういった意味では、他の人達とは違って特別ですよね。

吉田松陰が人気の理由のひとつに、松陰の 松下村塾 しょうかそんじゅく (今の山口県萩市)があります。

この小さな私塾から、幕末に活躍する、 高杉晋作 たかすぎしんさく 久坂玄瑞 くさかげんずい をはじめ、後に、初代の内閣総理大臣となる 伊藤博文 いとうひろぶみ や、第3代の内閣総理大臣、 山県有朋 やまがたありとも など、明治維新を成し遂げ、そして、日本の近代国家の礎を造った、多くの偉大な人物を生み出しています。

そんな、塾生に伝えたと言われる名言がいくつもありますが・・・

至誠(しせい)が有名です。

119973第90代、第96代内閣総理大臣 安部晋三も、座右の銘が「至誠」です。
山口県出身の安部首相は、吉田松陰と同郷ということですよね。

今回は、そんな吉田松陰の名言「至誠」について、せまりたいと思います。


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吉田松陰の至誠

吉田松陰の、至誠について見てみましょう。


allowrd_b1 至誠にして動かざる者は 未だ之れ有らざるなり
(至誠而不動者  未之有也

 意味
誠の心をもって尽くせば、動かなかった人など今まで誰もいない


すごく力強い言葉ですよね。

歴史の偉人と言われる人達を見ると、全てこの言葉に該当しているように思われます。

例えば、坂本龍馬。

吉田松陰と同じく、幕末・明治維新の偉人の代表格ですよね。

彼の成し遂げた一番の成果と言われているのが「薩長同盟」

犬猿の仲だった薩摩藩・長州藩を、誠の心を持って接したからこそ、説得する事ができて、そして時代が大きく変わる事になります。

また、千利休も誠の心をもって、お茶というものに接し、また人に接したからこそ、今や日本を代表する文化にもなり、そして日本や、歴史という枠を超えて、世界の人々、現代の我々に語りかけてくるのだと思います。

誠の心を尽くした時、その時点で報われるかどうかは別として、必ずそれが人々の心に何か影響を与えていくんですね。

さて、この「至誠にして動かざる者は 未だ之れ有らざるなり」

実は、吉田松陰が造った言葉というわけではありません。

その出典は、 孟子 もうし の離婁章句(りろうしょうく)の一部分です。


孟子・離婁章句

孟子


原文
孟子曰  居下位而不獲於上  民不可得而治也  獲於上有道  不信於友  弗獲於上矣  信於友有道  事親弗悦  弗信於友矣  悦親有道  反身不誠  不悦於親矣  誠見有道  不明乎善  不誠其身矣  是故誠者  天之道也  思誠者  人之道也  至誠而不動者  未之有也  不誠  未有能動者也

訳文
孟子曰く、
家来が君主の信任を得られないならば、民衆の心を得ることはできない。
君主の信任を得るには道がある。

友人に信用されないようでは、君主の信任を得る事は出来ない。
友人に信用されることにも道がある。

親に仕えて喜ばれないようでは、友人にも信用されない。
親に喜ばれるのにも道がある。

自分自身を反省して誠の心がなければ、親にも喜ばれない。
誠の心を持つことにも道がある。

何が善かを分からなければ、誠の心を持つことなどできない。
誠の心とは、天の道に従うこと。
誠でありたいと思うことは、人の道。
至誠にして動かざる者は、いまだかつていない
また、誠の心持たずして、人を動かせた者もいない。


儒教は、武士の精神的な軸となっている教えです。
135886 そして、儒教といえば、「論語」を書いた儒教の祖 ・孔子ですが、孟子は孔子の後継者と言われている人です。

松陰は、この孟子の思想を、講孟箚記(こうもうさっき)という本の中に書いています。

この講孟箚記(こうもうさっき)については、その本の成り立ちそのものが、松陰らしいエピソードになっています。


講孟箚記(こうもうさっき)

吉田松陰は、至誠について「講孟箚記」(こうもうさっき)の中に書いています。



サスケハナ 1853/1854年来航

サスケハナ 1853/1854年来航


吉田松陰は、ペリーの黒船でアメリカへの密航を企てた罪で、萩に送り返され、野山獄(のやまごく)に入れられます。

その時に、獄に入っていた囚人達に対して、孟子の講話をしましたが、それを、まとめたものです。

野山獄での、この松陰の孟子の教えは、他の囚人だけでなく、看守も聞いたというのですから、そのすごさが伝わります。


学ぶこと、自らを磨くこと、それを願えば、いつでもどこでも学ぶ事ができる、自分を磨く事が出来る。そして、そこには、身分や立場など関係ない。

そういった、松蔭の一貫した姿勢が、ここに、よく現れていると思います。


また、一方的に教えるだけでなく、互いに孟子の教えについて、話し合ったりもしていたようです。

講孟箚記は、そういった野山獄での事を踏まえて、書き上げられています。
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なお、講孟箚記は、「講孟余話」(こうもうよわ)とも呼ばれています。

これは、箚記(さっき)として書き始めた後に、完成した段階で、余話(よわ)と改題したためですが、また、その後に、箚記に戻しています(笑)

ちなみに、箚記と余話については次の意味があります。


  • 箚記(さっき) : 読書の後や話し合いの後の感想や想いをまとめた、随想録(ずいそうろく)のこと
  • 余話(よわ ) : あまり知られていないこぼれ話など
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吉田松陰の至誠

吉田松陰は、野山獄だけでなく、その後、獄から出たあとも、自宅謹慎の仲、松下村塾で多くの人に学びの機会を与え、世のため人のために尽くしています。

至誠 松蔭にとってみれば、これも至誠の一部なのでしょう。

そんな、松蔭の至誠に、後に明治維新を成し遂げ、日本を近代国家へと作っていく偉人たちが生まれたのは、既に述べたとおりです。

黒船に小船で乗り込み、アメリカに渡ろうとしたのも、アメリカに学んでこの国を近代国家にしたいという想いからで、ペリーに誠を尽くして話せば・・・という信念での行動だったのでしょう。

当時、幕府では海外渡航を禁止していたので、ペリーとしては日米和親条約を締結したばかりで、幕府を刺激したくなかった事もあり、松蔭の思いは叶えられませんでした。

Matthew_Calbraith_Perryしかし、ペリーはそんな松蔭の姿を見て、その知識人として教養を求める姿に感嘆しています。

もしも、こんな人物が日本には多くいるというのなら、この日本という国の前途は有望だといったことを、日本遠征記に書き記しています。

まさに、松蔭の至誠は、ペリーをも突き動かしたといえます。


吉田松陰に関しては、別の投稿記事もあります。
「あとがき」の最後にリンクがありますので、よければ、そちらも是非ご覧ください。
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まとめ

Check吉田松陰・至誠
allowrd_r1 至誠にして動かざる者は 未だ之れ有らざるなり

  意味 
の心をもって尽くせば、動かなかった人など今まで誰もいない

孟子・離婁章句の言葉 「至誠而不動者」を、 講孟箚記 こうもうせっき 講孟余話 こうもうよわ )に書き残したもの。


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あとがき

武士が孟子を人に教えるということは、やはり自らが、私利私欲ではなく仁や誠を持っていないと出来ない事だったと思います。

084160 逆に言えば、松蔭は、この孟子を人に教える事が出来る唯一といってもいいくらいの人物だったのではないでしょうか。

維新を成し遂げる人達が、萩の松下村塾から多く出たのも、そんな松蔭という人物を見て教えを受け、また一緒に学んだからなのでしょう。

それにしても、松下村塾で松蔭が教えていたのは、わずか2年間程なんですよね・・・本当に驚かされます。

よく会社などでの教育プログラムで言われているのは、「社員のやる気」を出させるような教えが究極とされています。

要は、何かを教えて、その通り動いてくれる社員では、実はたいした事なく、自らがやる気に燃えて取り組むような社員が一人でもいれば、その会社は栄えるというのです。

松蔭先生の教えは、まさにその究極、そして、至誠は、ちまたで流行っているビジネスコミュニケーションなんて吹き飛んでしまう位の、時代に関係のない、究極のコミュニケーションなのではないでしょうか。


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