平清盛と平将門の関係!歴史の皮肉!?を感じるこの二人

最近は平清盛 たいらのきよもり など、平氏が人気ありますね。

以前は、源氏の敵で、時代劇などでは悪役のイメージが強いですよね。

武士が政権を握るのは、源頼朝 みなもとのよりとも が、鎌倉に幕府を開いてからと言われていますが、実は、その前に平清盛が政権を握っています。

清盛・将門

そして、そこから少しさかのぼった時代には、平将門 たいらのまさかど が武士が治める世の中を作ろうと、立ち上がっています。

武士の世の中を作るきっかけを作ったのが平将門、そして成功させたのが平清盛と、言えるでしょう。165674

でも、この将門と清盛、同じ平氏ですが、
一体、どういう関係なのでしょうか?

血縁関係に、あるのでしょうか?

今回は、将門、清盛!
この二人にせまりたいと思います。


高望王流桓武平氏・伊勢平氏系図

さっそく、この二人の系図をご覧下さい。


平氏将門・清盛系図

この二人は、共に、高望王流桓武平氏の流れを組んでいる、同じ平氏です。

しかし、時代はかなり離れているますね。
将門が亡くなってから、178年後に清盛が誕生しています。

将門の従兄弟(いとこ)にあたる、貞盛の子孫にあたるのが清盛ですね。

実は、将門は父・良将が無くなった後、叔父たちと争っています。
そして、貞盛の父、国香を倒してしまいました。

この後、将門が国府を攻め落として、関東八州独立し、新皇を名乗ると、その鎮圧の為に、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らと共に、貞盛が、将門を倒しています。

承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)です。

つまり、貞盛は将門の敵で、その子孫が清盛ということになるんですね。

それでは、将門と清盛のそれぞれを、簡単に説明をしていきます。


将門

平将門
将門
は、叔父たちと争っています。

父・良将の遺産相続の土地を、伯父たちが勝手に一部横取りしていたということが、理由だというのが有力説です。

将門の父・良将(良持とも呼ぶ)は、高望王の三男ですが、兄弟の中では出世頭で、当時の武家では最高の栄誉職とされる「鎮守府将軍」(ちんじゅふしょうぐん)に任命されています。

その父が亡くなったことで、将門と叔父たちの間に確執が生まれ、争うようになったようです。

将門は、坂東(現在の、茨城県、千葉県)を中心に活躍した武将です。
武士が、馬に乗って戦うというスタイルを確立させたのも、この将門の時代の東国武将という説が有力です。

142599そんな中でも、将門の強さは郡を抜いていました。

攻めてくる、叔父や叔父と親戚関係にあった源護の息子・扶(たすく)達を、ことどとく倒しています。

いつしか、そんな将門を頼りとする豪族も現れます。

やがて、そんな豪族をかばって、常陸国府軍と衝突することとなり、これを討ち倒してしまいます。

この後、坂東八州(関東地方)を手中に収める事となり、独立国家としての新皇を宣言します。

歴史としては、同時期に、瀬戸内海で起きた藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱と併せて、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱 と呼ばれています。

しかし、新皇宣言から、わずか二ヵ月後、将門は、藤原秀郷、貞盛らの連合軍3,000に対して、わずか300~400程度で迎え撃つこととなり、頭に矢を受けて討ち死にしてしまいます。


たたり?

将門というと、怨霊や祟り(たたり)が有名ですよね(笑)

将門が倒されると、その首は天下国家の大罪人として、首がさらされます。

ここで、将門の伝説が産まれるのですが・・・

その首は、時を経ても、腐りも傷みもせずに、まるで生きているかの様に生々しく、ある夜、突然目を開くと、身体を求めて坂東に向けて飛んだというんです。

将門_絵ところが、その首の念力も、坂東に着く前に力尽きて、落ちた場所が今の東京大手町にある「首塚」なんだそうです。

この首塚は、動かしたりどかそうとする度に、たたりが起きるというので、今でも動かさずにそのままにしてあるとか・・・
今では、将門信仰だけでなく、心霊スポット・パワースポットとして、訪れる人が後を断たないそうです。

ちなみに、あまり知られていませんが、将門には銅塚が、城県坂東市の延命院の境内に残っています。


清盛

平清盛
清盛は、将門の死から、78年後の1118年に産まれています。

将門の乱の後、武士による大きな争いは起きず太平の世の中となっていましたが、 依然として、武士の地位は貴族や皇族に使われる低い立場でした。

大きな転換期は、摂関家の内輪もめから、崇徳上皇(すとくじょうこう)と、後白河天皇(ごしらかわてんのう)の兄弟の争いに発展し、平氏も源氏も、その勢力を二分にして争った保元の乱(ほうげんのらん)です。

この戦いで、清盛は、後白河天皇側につき、見事勝利します。

そして、この乱で、武士が権力を左右する位置にあることを、皇族も貴族も認識する事になります。

この後、院政の実力者である、藤原信西(ふじわらしんぜい)が、平清盛と組んで力を強めていきます。

その信西のやり方に、不満を持つ者も多く、反信西派の、藤原信頼(ふじわらのぶより)は、源義朝(みなもとのよしとも)と組み、清盛が熊野詣に出かけている間に、信西を倒してしまいます。

熊野からとって返した清盛は、すぐさま信頼と義朝を討ち取とります。
平治の乱(へいじのらん)です。



平治物語絵巻
平治物語絵巻

 この平治の乱で、源氏は衰退し、また有力な貴族もいなくなったために、平氏は武家の棟梁としての地位を確立するだけでなく、政治的な権力をも手中に収めることになりました。

その後、異例のスピード出世で、遂には、太政大臣にまでのぼりつめます。111511

そして、それまで、藤原家など、貴族で固めていた、政治の中枢に、平氏一族を次々と送り込み、やがて、天皇家とも姻戚関係になり実権を握ります。

しかし、反平氏の勢力が全国に拡大し、やがて源頼朝が東国で挙兵します。

そんな中、清盛は熱病にかかり亡くなってしまいます。

清盛の死後、わずか4年後の1185年の壇ノ浦の戦いで、平氏は滅亡することとなります。


将門と清盛

将門と清盛の関係は、直接的な関わり、関係は無いものの、清盛やその後の平氏を見ていると、どうしても思いが将門にいってしまいます。

将門は、東国武士による、新たな国家作りを目指していましたが、 それが、実現できずに討たれた、無念さがあったはずです。

清盛は、太政大臣となり、国の実権を握ります。
082059 まさに、将門がやりたかったけど、成しえなかったことを、清盛が実現した形になります。
ついに、武士が政権を握ったということですね。

しかし、平氏の一族は、武士が治めるというより、貴族化してしまい武士から離れていってしまいます。
そして、源頼朝をはじめとする、東国武士に、またたく間に滅ぼされていきます。
082059 この時の、東国武士として、打倒平氏を掲げてやっていくる、頼朝や義経の姿が、今度は、将門とかぶります。

082990東国に武士による政権(幕府)を作る、これも、まさに将門が描いていた理想像でした。

清盛と、その後の平氏の末路を見ると、皮肉に思えてなりません。


まとめ081377

146747   平清盛と平将門

共に、高望王流桓武平氏
清盛は、貞盛の四男 維衡(これひら)を祖とする、伊勢平氏

    平将門   
承平天慶の乱
関東八州を自国とし新皇を名乗る。

藤原秀郷、平貞盛の軍に討たれる 。

    平清盛    
保元・平治の乱を機に、武家の力を確立する。
やがて太政大臣となり、また皇族と姻戚関係となり権力を平氏に集中させる。
 


あとがき

将門って、改めて考えるとすごいですよね。

自らを、新皇(新しい天皇)と名乗った人って、歴史を見てもこの人くらいじゃないでしょうか?
084160

しかも、千年以上も経った、今、悪人ではなく、神としてあがめられ人々に愛されています。

こんな人は、他には聖徳太子と、菅原道真しかいません。

将門は、正しい事をきちんと認められる国にしたいという想いが、残されている資料などからも、読み取れます。

いつも想うのですが、清盛がこの将門の乱についての知識があれば、平氏がこんなにも簡単に滅ぶなどということもなく、もっと長く太平の世の中を作れた気がしてならないんですよね。

貞盛の子孫の清盛にとっては、将門は単なる大罪人でしかなく、貞盛こそ誇るべき先祖ということになっていたんでしょうか・・・

  

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12 thoughts on “平清盛と平将門の関係!歴史の皮肉!?を感じるこの二人”

  1. 平将門の父親の遺産を叔父の国香が横取りしたのを取り返そうとして戦ったというのなら将門は被害者で悪党の叔父一族に倒された怨念で1000年も過ぎた現生でも語り継がれているのですね。

    1. 私は子供の頃から歴史には興味がなく、数学や英語や国語やピアノだけが大好きで今まで、この57歳まで生きてきました。 しかし、子供の頃から、親に、あなたは平清盛の次男の子孫なのだよ! 長男は責任感のある潔い人だったらしいけど、次男は、まずくなったら、逃げるとこまで逃げる!って往生際の悪いヤンチャだったらしいと聞きました。

      1. 今日、平清盛の家系図を見たら、どの人が私の御先祖様かもわかりません。 私は平清盛のお子さんは男の子2人と思っていたので(^。^) やはり! と思いました。 姓が平だと、平清盛の子孫だと名乗る人はいるだろな?と実は子供のころから思っていました。

        1. それで、お分かりになる範囲で良いのですが、平家の人々の気質? 性格? みたいなものがありましたら、お教え願えませんでしょうか‍♀️ 私と似ているところがありましたら、親のいう子孫説とあながち嘘ではないかも?と思いながら、時々、思いだしながら生きてゆきます(^^) 将門さんの方が良かったかな?^_^

          1. ありがとうございます。
            返信が遅くなってすみません。
            平家の気質というのは特に無いように思います。平家といってもものすごい数の子孫の方がいますし、また、あくまで言い伝えですが清盛の子供たちですら性格が大きく違うように捉えられています。私自身、兄がいますが、兄とはまるで性格が違いますし気質も違うと思います(笑)
            私の先祖は源氏で、子供の頃、平氏より強い源氏みたいな感じで喜んでいましたが… 今は、源氏は正直な感想、いつも親兄弟で殺しあっているイメージです(笑) 鎌倉幕府が3代で源氏滅び北条政権になるのも、もちろん北条氏の策略も感じつつ、でも駄目さ加減が源氏にあった様に思えてなりません。
            さて、話が脱線してしましましたが、清盛の次男、平基盛は若くして亡くなっていますが、保元の乱でもかなり活躍しているようです。
            大河ドラマ「平清盛」では、今人気の若手俳優の渡部豪太さんが演じられていました。
            あくまでドラマの脚本家のイメージとはなりますが、渡部豪太さんのドラマ初出演ということもあり、ナイーブだけどとても好青年に描かれていました。
            あまり出番は多くありませんが、機会があったらご覧になってみてはいかがでしょうか?
            それにしても、平という名字で、純粋な平氏のご子孫であれば、それは大変貴重な気が致します。素敵なお名前だと思います。

    1. ありがとうございます‍♀️それで、お分かりになる範囲で良いのですが、平家の人々の気質? 性格? みたいなものがありましたら、お教え願えませんでしょうか‍♀️ 私と似ているところがありましたら、親のいう子孫説とあながち嘘ではないかも?と思いながら、時々、思いだしながら生きてゆきます(^^) 将門さんの方が良かったかな?^_^

  2. ありがとうございます‍♀️ まさか! お返事いただけるなんて思っていなかったので、感動しました。しかも、お優しい丁寧な説明をいただけて心がホッコリ❤️しました
    ですね! あくまでも! ですが、純粋な子孫と信じて、平の姓を大切に思うことにします。今は上手く表現できませんが、お聞きできて、本当に良かったです。感謝です‍♀️

    1. 平さん、はじめまして。私の母方の祖父は清盛の長男、重盛の子孫と言われています。母方の祖父は姓を小松といいます。重盛も小松公と言われていたそうなので、子孫というのは本当だと思います。母は、清盛の娘、重子のように髪が天然パーマです。NHK大河ドラマで描かれていた重子の性格にそっくりです。祖父も娘の母も日本人離れした彫りの深い顔立ちで、外国人のような雰囲気です。そして痩せ型で背が高いです。一説によると、平家はペルシア人だったそう。戦闘に使っていた刀も日本刀ではなく、剣先が丸いペルシアの剣のような形だったとか。
      清盛の父は中国と貿易していましたし、清盛も神戸に貿易のための港を造ったぐらいなので、語学が堪能だったはず。母も母方の祖父の親戚にも語学が得意な人が多いそう。
      母も祖父も霊感というか、直感が鋭いです。大河でも清盛の直感 の鋭さが描かれていました。また、世間一般の常識に惑わされない部分も。橋を造るとき、人柱を使ってましたが、清盛は「迷信なぞ信じない」と人柱を辞めたそう。
      平氏は船上で戦うのを好みましたか、それは、無駄に街を破壊し、関係ない人々を殺してはいけないという信条があったから。そして、女性と子供は殺してはいけないという決まりがあったそう。このルールを破ったのが源頼朝だそう。

      ちなみに、私の父方の祖父の家は平将門の子孫と言われています。明治から平に一文字付けくわえて二文字の姓を名乗っています。
      平氏の先祖は子孫をしっかり見守ってくれていると思います。
      私自身含め私の家族に嫌がらせをした人は、必ず人生のどこかで倍返しを受けています。話がやや脱線しましたが、ご参考になれば幸いです。

  3. 北条政子は、平将門の家系ではないですか?
    要は、壇ノ浦の戦いは、実は平氏同志の実権争い?
    その証拠に源氏はすぐに滅亡しています。

  4. コロナ禍で、時間的に余裕ができたので家のルーツをネットで調べて見ました。最初に調べたのは平将門でした。
    この時代平安時代結婚は、婿養子が常識であった様です。
    平氏は、長男である高棟王が、公家の流れで堂上平氏になっており今でも続いています。三男高望王が、武家の流れで今で言う関東地方筑波山真壁郡辺りに拠点を構えた様です。当時これらの地域は、源護が大掾として関東地方を治めておりました。この源護の娘に將門の父以外の兄弟が婿養子になっております。將門の乱の始まりは、父良将が東北遠征でなくなり、、その後將門が、京都の公家藤原氏に仕えてから関東地方・坂東に戻った時に父良将の領地を源護と叔父2人で国香等が、返してくれないことから始まりました。その後子である平貞盛と藤原秀郷対平将門の戦いの後坂東平氏の祖先貞盛の流れが始まります。その後平忠常の乱を経て、坂東地域は、河内源氏が、勢力が高まりますが、川内源氏の息子たちは、平忠常の婿養子になっております。この頃川内源氏の配下になるのを嫌い伊勢に移住したのが平清盛の流れです!
    この他、藤原秀郷の流れや百済王の渡来人税務官僚?和氏の流れもあり婿養子の慣例に従って血縁関係が入り乱れて居ます。
    因みに桓武天皇の母親は百済王の流れ和氏です。
    源平の戦いは、実質伊勢平氏と源頼朝を神輿にした坂東平氏の戦いです。北條氏千葉氏は何方も板東平氏です。
    要するに全国に3000から5000の荘園の取り合いの歴史です。
    これに天皇家と寺社系・公家藤原北家が絡みます。
    こうなると複雑怪奇の状況の中で江戸時代まで続来ます。
    百済王について言いますと中国の統一国家即ち堯、秦、漢、宋、唐などを作る過程で発生した難民が、それぞれ朝鮮半島の集まり高句麗、百済、新羅、任那という国々を作って、平安時代まで渡来人として日本に移住した様です。今の朝鮮半島の民族のルーツはその後半島に移住した女真族とモンゴル人の混合がベースと言われてます。大陸の侵略は、侵略を受けた民族は絶えたようです。
    更に詳しく調べたい人は茨城県水海道郷土史を御覧下さい。

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